周梨槃特の掃除

周梨槃特(チューラパンタカ)

私のいた修行僧堂には「プロの掃除エキスパート」みたいな、クリーニングアイテム満載の千手?周梨槃特の木像がありました。
作務が修行の禅宗らしい感じがしますが、周梨槃特は特に掃除が得意だったわけではないのです。
初期禅宗でも言われているように掃除ばかりしてたら「怠けずに修行しなさい」と叱られるのが仏教です。
ということで、ちょっと周梨槃特メモ書いておきますね。

周梨槃特は金持ちの商人の娘が、家の召使と駆け落ちして生まれた子供と言われています。路上で生まれた兄はマハーパンタカ(大路の子)次の子がチューラパンタカ(小路の子)と名づけられました。
成長したのち、兄のマハーパンタカが出家し阿羅漢果を得たことにより、弟のチューラパンタカも後を慕って出家し、懸命に頑張りましたが、彼はごく短い偈さえも四か月たっても覚えられず、兄のマハーパンタカも還俗させることを考えたそうです。

その偈は
「よき香りの紅蓮コーカナダは 朝に花咲き、香りが失せず。見よ、そのように輝かくアンギーラサを、空に輝く太陽の如し」です。
『Padumaṃ yathā kokanadaṃ sugandhaṃ, pāto siyā phullam avītagandhaṃ.
 Añgīrasaṃ passa virocamānaṃ , tapantam ādiccam iv' antalikkhe'. ti"』



さて、それを知った仏は白い純白の布をチューラパンタカに手渡し、
「チューラパンタカよ、「塵を除く、塵を除く」『rajyoharaṇṃ rajyoharaṇan』と唱えながらこの布で拭き掃除をしなさい」と命じました。

彼は手中の布の汚れ行くのを観じて無常を悟ったと言われています。
その時、チューラパンタカの悟りを神通で知った仏の唱えられた言葉が次の法句25偈ということです。

『奮起によって務めによって、自制によって調御によって、暴流さえも流されない島を賢者は作りうる』
(渇愛や邪見、無智という暴流)


道元禅師はこれを「中々世智弁聡明なるよりも鈍根なるようにて切なる志を発する人、速やかに悟りを得るなり。如来在世の周梨槃特のごときは、一偈を読誦することも難かりしかども根性切なるによりて一夏に証を取りき。只今ばかりが我が命は存ずるなり。死なざる先に悟りを得んと切に思ふて仏法を学せんに、一人も得ざるはあるべからざるなり」(正法眼蔵随聞記二―20)と語られました。無常迅速の教えですね。

「塵垢の除去」と言うと、神秀の「時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ」を思い出してしまいますが、重ねてしまうと、周梨槃特はなんだか漸悟修行で頓悟しちゃったみたいな・・(笑)










ダークサイドに落ちないための「周那問見經」という「Sallekha-sutta」

中阿含の穢品にある「周那問見經」というお経です。
パーリ経典では「Sallekha-sutta」「削減経」で中部経典根本五十経偏の八番目にあります。こちらは詳しい解説が出ているもの紹介しておきますのでぜひご参考に 
 Sallekha-sutta サーレッカ・スッタ 戒め

パーリ経典の方は44項目の戒めがありまして、暴力・殺生・盗み・非梵行・口の禍4つ・貪り・憎しみから八邪道+2へと進み、ここからが面白いのですが、だらけ・混乱・疑い・怒り・恨み・馬鹿にする・張り合う・嫉妬する・物惜しみする・見栄を張る・善人ぶる・頑固になる・高慢になる・反抗的になる・悪友と付き合う・怠るようになる・大事なことが信じられなくなる・悪い事を恥じなくなる・悪い事を恐れなくなる・必要なことを学ばなくなる・怠け癖が付く・注意力散漫になる・知恵が無くなる・主観に取りつかれて変な人になる。と言う具合に(適当です)、いけない人へまっしぐらの目も当てられない人生を暗示しているような・・・・汗

さて、漢字のお経の方を適当に訳してみました。中部経典よりはかなり短くて端折ってますので気になった方は元ネタのパーリ経典で全容をご覧ください。 パーリ仏典 ①-1  中部(マッジマニカーヤ)根本五十経篇 Ⅰ

注:「漸損」を「徐々に(煩悩)を削減する」と置き換えたところもあるので、読みにくかったらごめんなさいです。ちなみに周那さんはチュンダさんとしました。

九十一)中阿含穢品 周那問見經

このように私は聞いた
ある時、仏はコーサンビーのゴーシタ園に居られた
そこにおいて、尊者マハーチュンダは夕方に宴の座より立ち上がり、仏の所へ近づき、仏足を礼拝し、一方に座った。
尊者マハーチュンダ曰く:「世尊!世の中には諸々の見解が生じています、いわゆる神にかかわるもの、生きとし生けるものに、人に、幸福に、命に、世界にかかわるもの。世尊!何を知り、何を見れば、このような見解を滅し、離れられ、断ち、捨てられましょうか?」

この時、世尊は告げられた:「チュンダよ、世の中には諸々の見解が生じている、いわゆる神にかかわるもの、生きとし生けるものに、人に、幸福に、命に、世界にかかわるもの。チュンダよ、もし諸法の滅尽無与者に仕えるなら、その如くを知り、その如くを見れば、このような見解を滅し、離れられ、断ち、捨てられるでしょう、まさに徐々に(煩悩を)削減しようとすることです。

チュンダよ、聖なる法、律中において、漸損の者とは何か?比丘は、欲を離れ、悪不善の法を離れるのである、第四禅を得て成就していると、彼にこのような念が生じます『私は徐々に(煩悩を)削減しようとしている』と。

チュンダよ、聖なる法、律中においては、これは漸損ではなく、四増上心の有る現法楽に住んでいるのである、行者はこれを繰り返しているのである、彼にこのような念が生じます『私は徐々に(煩悩を)削減しようとしている』と。

チュンダよ、聖なる法、律中においては、これは漸損ではなく、比丘はすべての色界想を越え、無色界禅定を成就し遊戯しているのである、彼にこのような念が生じます『私は徐々に(煩悩を)削減しようとしてている』と。

チュンダよ、聖なる法、律中においては、これは漸損ではなく、無色界禅定によって、色界を離れ無色界を得て、行者がこれにより起こっていると言われるのである、彼にこのような念が生じます『私は徐々に(煩悩を)削減しようとしている』と。

チュンダよ、聖なる法、律中においては、これは漸損(煩悩の削減)ではありません。

・漸損の法
チュンダよ、他は悪欲の念欲であっても、我は悪欲の欲念が無いようにと、徐々に(煩悩を)削減しましょう。
チュンダよ、他は害意・瞋があるが、我は害意・瞋の無いようにと、徐々に(煩悩を)削減しましょう。
チュンダよ、他は殺生し、与えられていないものを取り、梵行をしないが、我は梵行であろうと、徐々に(煩悩を)削減しましょう。
チュンダよ、他は(利を求めて)伺いを増し、争いの心を持ち、だらけと眠気で、高慢で惑いと疑いがあるが、我は惑い疑いないようにと、徐々に(煩悩を)削減しましよう。
チュンダよ、他は瞋りに縛られ、へつらいといつわり、恥じなく、恐れないが、我は慙愧があるようにと、徐々に(煩悩を)削減しましょう。
チュンダよ、他は慢が有るが、我は漫が無くなるようにと、徐々に(煩悩を)削減しましょう。
チュンダよ、他は増慢が有るが、我は増慢が無くなるようにと、徐々に(煩悩を)削減しましょう。
チュンダよ、他は多くを学ばないが、我は多くを学ぶようにと、徐々に(煩悩を)削減しましょう。
チュンダよ、他はもろもろの善法を観察しないが、我はもろもろの善法を観察しようと、徐々に(煩悩を)削減しましょう。
チュンダよ、他は非法、悪行を行うが、我は如法に行おうと、徐々に(煩悩を)削減しましょう。
チュンダよ、他は嘘・陰口・暴言・でまかせなど悪い習性のものであるが、我は悪い習性が無いようにと、徐々に(煩悩を)削減しましょう。
チュンダよ、他は信が無く、怠けと、不注意、落ち着きなく悪知恵であるが、我は悪知恵の無いようにと、徐々に(煩悩を)削減しましょう。

・発心の法
チュンダよ、もし、諸々の善法を務めようとの意欲を発心した者は、則ち余すところなく利益あり、では、また身体と口行の善法とはなにか?
チュンダよ、他は悪欲の念欲であっても、我は悪欲の欲念が無いようにと、まさに発心しましょう。
チュンダよ、他は害意・瞋があるが、我は害意・瞋の無いようにと、まさに発心しましょう。
チュンダよ、他は殺生し、与えられていないものを取り、梵行をしないが、我は梵行であろうと、まさに発心しましょう。
チュンダよ、他は(利を求めて)伺いを増し、争いの心を持ち、だらけと眠気で、高慢で惑いと疑いがあるが、我は惑い疑いないようにと、まさに発心しましょう。
チュンダよ、他は瞋りに縛られ、へつらいといつわり、恥じなく、恐れないが、我は慙愧があるようにと、まさに発心しましょう。
チュンダよ、他は慢が有るが、我は漫が無くなるようにと、徐々に(煩悩を)削減しましょう。まさに発心しましょう。
チュンダよ、他は増慢が有るが、我は増慢が無くなるようにと、まさに発心しましょう。
チュンダよ、他は多くを学ばないが、我は多くを学ぶようにと、まさに発心しましょう。
チュンダよ、他はもろもろの善法を観察しないが、我はもろもろの善法を観察しようと、まさに発心しましょう。
チュンダよ、他は非法、悪行を行うが、我は如法に行おうと、まさに発心しましょう。
チュンダよ、他は嘘・陰口・暴言・でまかせなど悪い習性のものであるが、我は悪い習性が無いようにと、まさに発心しましょう。
チュンダよ、他は信が無く、怠けと、不注意、落ち着きなく悪知恵であるが、我は悪知恵の無いようにと、まさに発心しましょう。

・対する法
チュンダよ、このように悪道には対しては正道を与します、このように悪解脱対しては正解脱を与します。
このように、チュンダよ、悪欲の者に対しては非悪欲を与します。害意・瞋りの者に対しては不害意・不瞋を与します。
殺生・与えられていないものを取ること・非梵行の者に対しては梵行を与します。
(利を求めて)伺いを増し、争いの心を持ち、だらけと眠気で、高慢で惑いと疑いの者に対しては疑い惑いのないことを与します。
瞋りに縛られ、へつらいといつわり、恥じなく、恐れのない者に対しては慙愧を与します。
慢の者に対しては不慢を与します。
増慢の者に対しては増慢の無いことを与します。
多く学ばない者に対しては多く学ぶことを与します。
諸々の善法を観察しない者に対しては諸善法を観察することを与します。
非法・悪行を行う者に対しては如法の行いを与します。
嘘・陰口・暴言・でまかせの悪習性の者に対しては善い習性を与します。
信が無く、怠けと、不注意、落ち着きなく悪知恵である者に対しては善き智慧を与します。

チュンダよ、黒い法があれば黒の報いありて、悪処に赴くに至る。白い法があれば白い報いあり、しかも上昇を得るであろう。
このようにチュンダよ、悪欲の者には非悪欲を以って上昇の為とする。
害意・瞋りの者には不害・不瞋を以って上昇の為とする。
殺生・与えられていないものを取ること・非梵行の者には梵行を以って上昇の為とする。
(利を求めて)伺いを増し、争いの心を持ち、だらけと眠気で、高慢で惑いと疑いの者には疑い惑いのないことを以って上昇の為とする。
瞋りに縛られ、へつらいといつわり、恥じなく、恐れのない者には慙愧を以って上昇の為とする。
慢の者には不慢を以って上昇の為とする。
増慢の者には増慢の無いことを以って上昇の為とする。
多く学ばない者には多く学ぶことを以って上昇の為とする。
諸々の善法を観察しない者には諸善法を観察することを以って上昇の為とする。
非法・悪行を行う者には如法の行いを以って上昇の為とする。
嘘・陰口・暴言・でまかせの悪習性の者には善い習性を以って上昇の為とする。。
信が無く、怠けと、不注意、落ち着きなく悪知恵である者には善き智慧を以って上昇の為とする。

・般涅槃の法
「チュンダよ、もし、自ら調御せずに、他人の調御していないことを調御しようと欲しても、このような道理はありません。
自ら溺れている者が、他が溺れているのを救い出そうとするような道理にかなわないものです。
自ら般涅槃でない者が、他の般涅槃に達していない者を般涅槃させようとすることは道理にありません。
チュンダよ、もし、自ら調御する者が、他人の調御していないことを調御しようと欲すれば、まちがいなく道理の有るところです。
自ら溺れていない者が、他人の溺れているのを救い出そうとするような道理にかなったものです。
自ら般涅槃した者が、他の般涅槃に達していない者を般涅槃させるようなまちがいなく道理の有るところです。
チュンダよ、悪欲の者には非悪欲を以って般涅槃の為とする。
害意・瞋りの者には不害・不瞋を以って般涅槃の為とする。
殺生・与えられていないものを取ること・非梵行の者には梵行を以って般涅槃の為とする。
(利を求めて)伺いを増し、争いの心を持ち、だらけと眠気で、高慢で惑いと疑いの者には疑い惑いのないことを以って般涅槃の為とする。
瞋りに縛られ、へつらいといつわり、恥じなく、恐れのない者には慙愧を以って般涅槃の為とする。
慢の者には不慢を以って般涅槃の為とする。
増慢の者には増慢の無いことを以って般涅槃の為とする。
多く学ばない者には多く学ぶことを以って般涅槃の為とする。
諸々の善法を観察しない者には諸善法を観察することを以って般涅槃の為とする。
非法・悪行を行う者には如法の行いを以って般涅槃の為とする。
嘘・陰口・暴言・でまかせの悪習性の者には善い習性を以って般涅槃の為とする。。
信が無く、怠けと、不注意、落ち着きなく悪知恵である者には善き智慧を以って般涅槃の為とする。

このために、チュンダよ、我れは汝の為に漸損の法を、発心の法を、対する法を、般涅槃の法を説いたのです。
尊師が弟子の為に大慈悲・哀憐・愍傷の念を起こし、利益と、安穏快楽を願い求めることを、我れは今しています。

汝ら、また、まさに自ら繰り返しなしなさい、事無く山林・樹下・空室・安静処至り、坐禅思惟し、放逸であること勿れ、精進に勤め、後悔する勿れ、これが我が勅の教えである、これが我が訓戒である。」
仏は是の如く説きたもうた。
尊者マハーチュンダ及び諸比丘は、仏の説きたもうところを聞いて、歓喜した。

(九十一)第五第二小土城誦
中阿含穢品周那問見經
我聞如是:
一時,佛遊拘舍彌,在瞿師羅園。
於是,尊者大周那則於晡時従宴坐起,往詣佛所,稽首佛足,却坐一面,
白曰:「世尊!世中諸見生而生,謂計有神,計有衆生,有人、有壽、有命、有世。世尊!云何知,云何見,令此見得滅、得捨離,而令餘見不續,不受耶?」
彼時,世尊告曰:「周那!世中諸見生而生,謂計有神,計有衆生,有人、有壽、有命、有世。周那!若使諸法滅尽無与者,如是知、如是見,令此見得滅、得捨離,而令餘見不續、不受,當学漸損。
「周那!於聖法、律中,何者漸損?比丘者,離欲、離悪不善之法,至得第四禅成就遊,彼作是念:『我行漸損。』
周那!於聖法、律中,不但是漸損,有四増上心現法楽居,行者従是起而復還入,彼作是念:『我行漸損。』
周那!於聖法、律中,不但是漸損,比丘者度一切色想,至得非有想非無想処成就遊,彼作是念:『我行漸損。』
周那!於聖法、律中、不但是漸損,有四息解脫,離色得無色,行者従是起當為他説,彼作是念:『我行漸損。』
「周那!於聖法、律中、不但是漸損。
周那!他有悪欲、念欲,我無悪欲、念欲,當学漸損。
周那!他有害意瞋,我無害意瞋,當学漸損。
周那!他有殺生、不与取、非梵行,我無非梵行,當学漸損。
周那!他有増伺、諍意、睡眠所纏、調貢高而有疑惑,我無疑惑,當学漸損。
周那!他有瞋結、諛諂、欺誑、無慙、無愧,我有慙愧,當学漸損。
周那!他有慢,我無慢,當学漸損。
周那!他有増慢,我無増慢,當学漸損。
周那!他不多聞,我有多聞,當学漸損。
周那!他不観諸善法,我観諸善法,當学漸損。
周那!他行非法悪行,我行是法妙行,當学漸損。
周那!他有妄言、両舌、麁言、綺語、悪戒,我無悪戒,當学漸損。
周那!他有不信、懈怠、無念、無定而有悪慧,我無悪慧,當学漸損。
「周那!若但発心念欲求学諸善法者,則多所余益,況復身、口行善法耶?
周那!他有悪欲、念欲,我無悪欲、念欲,當発心。
周那!他有害意瞋,我無害意瞋,當発心。
周那!他有殺生、不与取、非梵行,我無非梵行,當発心。
周那!他有増伺、諍意、睡眠所纏、調貢高而有疑惑,我無疑惑,當発心。
周那!他有瞋結、諛諂、欺誑、無慙、無愧,我有慙愧,當発心。
周那!他有慢,我無慢,當発心。
周那!他有増慢,我無増慢,當発心。
周那!他不多聞,我有多聞,當発心。
周那!他不観諸善法,我観諸善法,當発心。
周那!他行非法悪行,我行是法妙行,當発心。
周那!他有妄言、両舌、麁言、綺語、悪戒,我無悪戒,當発心。
周那!他有不信、懈怠、無念、無定而有悪慧,我無悪慧,當発心。
「周那!猶如悪道与正道対,猶如悪度与正度対。
如是,周那!悪欲者与非悪欲為対。害意瞋者与不害意瞋為対。
殺生、不与取、非梵行者与梵行為対。
増伺、諍意、睡眠、調貢高、疑惑者与不疑惑為対。
瞋結、諛諂、欺誑、無慙、無愧者与慙愧為対。
慢者与不慢為対。
增慢者与不増慢為対。
不多聞者与多聞為対。
不観諸善法者与観諸善法為対。
行非法悪行者与行是法妙行為対。
妄言、両舌、麁言、綺語、悪戒者与善戒為対。
不信、懈怠、無念、無定、悪慧者与善慧為対。

「周那!或有法黒,有黒報,趣至悪處処。或有法白,有白報,而得昇上。
如是,周那!悪欲者,以非悪欲為昇上。害意瞋者,以不害意瞋為昇上。殺生、不与取、非梵行者,以梵行為昇上。増伺、諍意、睡眠、調貢高、疑惑者,以不疑惑為昇上。瞋結、諛諂、欺誑、無慙、無愧者,以慙愧為昇上。慢者,以不慢為昇上。増慢者,以不増慢為昇上。不多聞者,以多聞為昇上。不観諸善法者,以観諸善法為昇上。行非法悪行者,以行是法妙行為昇上。妄言、兩舌、麁言、綺語、悪戒者,以善戒為昇上。不信、懈怠、無念、無定、悪慧者,以善慧為昇上。
「周那!若有不自調御,他不調御欲調御者,終無是処。自没溺,他没溺欲拔出者,終無是処。自不般涅槃,他不般涅槃令般涅槃者,終無是処。
周那!若有自調御,他不調御欲調御者,必有是処。自不没溺,他没溺欲拔出者,必有是処。自般涅槃,他不般涅槃令般涅槃者,必有是処。如是。
周那!悪欲者,以非悪欲為般涅槃。害意瞋者,以不害意瞋為般涅槃。殺生、不与取、非梵行者,以梵行為般涅槃。増伺、諍意、睡眠、調貢高、疑惑者,以不疑惑為般涅槃。瞋結、諛諂、欺誑、無慙、無愧者,以慙愧為般涅槃。慢者,以不慢為般涅槃。増慢者,以不増慢為般涅槃。不多聞者,以多聞為般涅槃。不観諸善法者,以観諸善法為般涅槃。行非法悪行者,以行是法妙行為般涅槃。妄言、両舌、麁言、綺語、悪戒者,以善戒為般涅槃。不信、懈怠、無念、無定、悪慧者,以善慧為般涅槃。
「是為,周那!我已為汝說漸損法,已摂発心法,已摂対法,已摂昇上法,已摂般涅槃法。如尊師所為弟子起大慈哀憐念愍傷,求義及余益,求安隱快楽者,我今已作。汝等亦當復自作,至無事処山林樹下空安靜処,坐禅思惟,勿得放逸,勤加精進,莫令後悔。此是我之教勅,是我訓誨。」
佛說如是。尊者大周那及諸比丘,聞佛所說,歡喜奉行。
周那問見經第五竟(千五百七十五字)




皆の嫌いな「常に観察すべき真理」

常に観察すべき五つの真理という経典があります。
漢訳経典にも『一日誦名念』というタイトルで様々な事象を説いたものがありますが、その中で「老・病・死」を短い偈文にした『柔軟経』をメモしておきます。
前半はお釈迦様の在家時代の豪華な生活ぶりが説かれており楽しく読めます。
完全に訳せなくても、漢字を眺めるだけでなんとなく情景が浮かぶのは漢字文化の特権のような気がしますので、眺める気分でも良いと思います。
草花についてはまた後程調べてみたいと思います。

ではまず偈文の勝手訳を貼っておきます。

「病という法、老いという法、および死亡という法、これらの法(真理)は自らに存在するものです。 
凡夫の悪い見解のように、もし、私が(病・老い・死を)憎惡して、此の法(真理)を体得しなければ、私はそのような真理を説くことができないでしょう。 
また、この法を事実として、ありのままに行じてゆけば、法(真理)を知り生を離れる(不死となる)のです。    
病い無く少なからず健康であると、命のために驕り高ぶり、事実から目を背ける驕り高ぶりという欲安の見解を無くし、ありのままに覚知することで、生存の欲によって怖れることの無く、妄想の有ることの無きを得て、梵行を浄く行なうことができるのです」

柔軟經第一
我聞如是。
一時佛遊舍衞國在勝林給孤獨園。
爾時世尊告諸比丘:「自我昔日出家學道、爲從優遊從容閑樂極柔軟來、我在父王悦頭檀家時、爲我造作種種宮殿、春殿夏殿及以冬殿、爲我好遊戲故。去殿不遠復造種種若干華池、青蓮華池、紅蓮華池、赤蓮華池、白蓮華池。於彼池中殖種種水華、青蓮華、紅蓮華、赤蓮華、白蓮華、常水常華使人守護不通一切、爲我好遊戲故。於其池岸殖種種陸華、修摩那華、婆師華、瞻蔔華、修揵提華、摩頭揵提華、阿提牟多華、波羅頭華、爲我好遊戲故。而使四人沐浴於我、沐浴我已赤旃檀香用塗我身、香塗身已著新繒衣、上下内外表裏皆新、晝夜常以繖蓋覆我、莫令太子夜爲露所沾、晝爲日所炙、如常他家麁、麥飯、豆羹、薑菜、爲第一食、如是我父悦頭檀家最下使人、粳糧餚饌爲第一食。

「復次、若有野田禽獸最美禽獸、提帝邏和吒劫賓闍邏、奚米何犁泥奢施羅米、如是野田禽獸、最美禽獸、常爲我設如是之食。

「我憶昔時父悦頭檀家、於夏四月昇正殿上、無有男子、唯有女妓而自娯樂、初不來下、我欲出至園觀之時、三十名騎、簡選上乘、鹵簿前後、侍從導引、況復其餘、我有是如意足、此最柔軟。

「我復憶昔時看田作人止息田上、往詣閻浮樹下、結跏趺坐、離欲離惡不善之法、有覺、有觀、離生喜、樂、得初禪成就遊、我作是念:『不多聞愚癡凡夫、自有病法、不離於病、見他人病、憎惡薄賤、不愛不喜、不自觀己。』我復作是念:『我自有病法不離於病、若我見他病而憎惡薄賤不愛不喜者、我不宜然我亦有是法故。』如是觀已、因不病起貢高者即便自滅、我復作是念:『不多聞愚癡凡夫自有老法不離於老、見他人老憎惡薄賤不愛不喜不 自觀己。』
「我復作是念:『我自有老法不離於老、若我見他老而憎惡薄賤不愛不喜者、我不宜然、我亦有是法故。』如是觀已、若因壽起貢高者、即便自滅。不多聞愚癡凡夫爲不病貢高豪貴放逸、因欲生癡、不行梵行、不多聞愚癡凡夫爲少壯貢高豪貴放逸、因欲生癡、不行梵行、不多聞愚癡凡夫爲壽貢高豪貴放逸、因欲生癡、不行梵行。」

於是、世尊即説頌曰:
病法老法、 及死亡法、     
如法自有、 凡夫見惡、    
若我憎惡、 不度此法、    
我不宜然、 亦有是法、    
彼如是行、 知法離生、    
無病少壯、 爲壽貢高、    
斷諸貢高、 見無欲安、    
彼如是覺、 無怖於欲、    
得無有想、 行淨梵行、
 佛説如是。彼諸比丘聞佛所説、歡喜奉行









降伏一切大魔最勝成就 !!



これは黄色い大般若経典をババ~ッと繰り終わる時に唱える偈文です。
威勢がいいので、なんかお祓いしてるような感じで見ている方もおられるでしょうが、本当は祈祷なんかじゃなく自分のだらしない修行に気合を入れる言葉なんです。

『降伏一切大魔』とは、自分の心を煽るあらゆるすべての誘惑を退けることです。
『最勝成就』とは、この上もない最も優れた涅槃、つまり成道です。日本的には成仏することです。

では、この『一切大魔』とはなにかというと、言うまでもなくお釈迦様が成道されたときに打ち破った魔の軍勢のことです。

この魔の軍勢についてお釈迦さまご自身が語られたお話があります。
スッタニパータの大いなる章にある「励み」ですので、岩波文庫「ブッダの言葉」中村元訳 を参考に抜き出してみます。

「つとめはげむこと」
 
 ネーランジャラー河の畔にあって、安穏を得るためにつとめ励み専心し、努力して瞑想していたわたくしに、(悪魔)ナムチはいたわりの言葉を発して近づいてきて言った、

 「あなたは痩せていて顔色も悪い、あなたの死が近づいてきた」。

 「あなたが死なないで生きられる見込みは千に一つの割合だ。君よ、生きよ。生きた方が良い。命あってこそ諸々の善行を作すこともできるのだ」

 かの悪魔がこのように語ったときに、仏陀は次のように告げた。

 「怠け者の親族よ、悪しき者よ、汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、わたしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい」

 「わたしには信念があり、努力があり、また智慧がある。このように専心しているわたしに、汝はどうして命を保つことを尋ねるのか?」

 「(励みから起こる)この風は河水の流れをも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血がどうして枯渇しないであろうか」

 「血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉が落ちると心はますます澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心はますます安立するに至る」

 「わたしはこのように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、わが心は諸々の欲望にひかれることはない。見よ、心身の清らかなことを」

 「汝の第一の軍勢は欲望であり、第二の軍勢は嫌悪であり、第三の軍勢は飢渇であり、第四の軍勢は妄執といわれる」

 「汝の第五の軍勢はものうさ、睡眠であり、第六の軍勢は恐怖といわれる。汝の第七の軍勢は疑惑であり、汝の第八の軍勢はみせかけと強情と、誤って得られた利益と名声と尊敬と名誉と、また自分をほめたたえて他人を軽蔑することである」

 「(悪魔)ナムチよ、これらは汝の軍勢である。黒き魔の攻撃群である。勇者でなければかれに打ち勝つことができない。勇者は打ち勝って楽しみを得る」

 「このわたしがムンジャ草を取り去るだろうか?(敵に降参してしまうだろうか?)この場合命はどうでもよい。わたしは敗れて生きながらえるよりは、勝って死ぬ方がましだ」

 「軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたしをこの場所から退くことなかれ」

 「神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、わたしは智慧の力で汝の軍勢を打ち破る。-焼いてない生の土鉢を石で砕くように」
                                        以上抜粋

お釈迦さまとは比べることも出来ませんが、これらの軍勢の弱小凡夫バージョンは私たちにも日常にやってきて誘惑の限りを尽くしていますし、時にはこれが本当の私とか自由とか言って暴走している始末です。

では、魔の軍勢を抜き出します

第一軍:欲望
第二軍:嫌悪
第三軍:飢渇
第四軍:渇愛
第五軍:沈鬱、眠気
第六軍:恐怖
第七軍:疑い
第八軍:誤魔化しと強情
第九軍:利益、名声、称賛
第十軍:自賛、他人を貶す

まず、これらの敵を覚えておく事が闘いの始めの一歩ですね。

最初は連敗でしょうが、正しいお師匠さんに就いてお釈迦様の必勝法(三十七菩提分法)を頑張っているうちに、たまたまでも勝てるようになればコツ?が掴めてくるのではないかと思います。

そのためには常に敵の気配を逃さないように気を付けることが大事です。
これを念といい精進ともいいます。


ちなみに大般若に書いてある内容の一部は下記の記事にあります。
http://akiwann.blog111.fc2.com/blog-entry-131.html

















「自我」を宗教から離れて見てみると


「私という確固たるものは存在しない」という仏教の「無我」の教えがあります。

この無我の説明に使われる仏教の古い話に「車の喩え」がありまして「バラバラに分解した車のどれが車なのか?」というものです。

このような例えでミリンダ王が納得したのかどうかわかりませんが、現代では「私というものは様々な現象による感覚を統合した質感である」とみるのが一般的なような気がします。

科学的には「脳の中の幽霊」でよく知られるラマチャンドラン先生は自己の性質を5つに分けています。

1.連続的な感覚
2.統合的な感覚
3.主体的な感覚
4.所有感
5.内省的思考からくる感覚

もうなにも説明が要らないぐらいシンプルで明快な分別です。
この分類を頭の引出しに入れて坐禅をすると、あれ不思議、お経の中に繰り返し出てくる所謂大乗経典で云う処の「五蘊皆空」の元ネタみたいなお釈迦様の言葉がふと解るような気がしてくるので面白いです。

「片手の音と」いう知覚の症状を扱った章もありカルトやスピ系の嫌いな理工系の人には一読の価値のある著者だと思います。
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