「心身一如」にグダグダと妄想で暇をつぶすと。

「心身一如」ってなんか仏教らしくないよね。などと考えてると、禅はいわゆる仏教と似てるのか?などと思ってしまうのです。


人は体の内外から同時に入力される無数の感覚に、生命として備えられた無数の反応系で並行かつ分散処理していく。

人の活動には神経伝達物質の増減や各部位の収縮・弛緩といった無自覚で、しかし生命として最も基本で意識の関与を待つまでもない感覚への反応が大部分を占めている。

もっと大きな粗い運動、手を引っ込める、抜重して損傷を避ける、好意や敵意を表す、などの他からは自覚的に見える行動も無自覚に行われる。

実際、それら自分の行動で自分の意識に上る事柄はほとんど無く、あらかじめ備えられたかあるいは学習によって獲得した反応系で生命として自動的に対処して生きている。

例えば、意識に上るのは未だ起こっていない事を予測して注意を向け続ける必要がある場合や、自他を観察または省察し関係を調整していく必要がある場合などといった、活発な自身の働きそのものとは離れた世界であるかもしれない。(それは仕事の現場と本社の会議室ぐらいの差のような)

悩みや苦しみといった意識にあがる心の最たるものも、内外の感覚に対して各臓器や神経らの反応系が幾重にも関わり脳内処理の多層化とループを経てやっと意識に上がるのだろうか、また自覚的な意識に上がる以前から身も心も一体になって何度も無意識な対処を繰り返しているのだろう。

禅でいうところの活発発地や、本来の面目は、一般に仏教学でいう体と心の名色の区別を超えて、存在そのものが自己であるという一切合切ひっくるめた働きをいうように感じる。例えばアドレナリンの放出で変化する体も行動も意識も、あるいはそれ以上に感覚に対するアドレナリンの分泌課程さえも己という分けることのできない現象である、という見方とも思う。

禅のような己という不可分な存在とは異なり、仏教でいう身と心とはそれぞれ別のもので、共に原因や結果を影響しあう相互依存の関係ともとれる。

自分の意識されない分散同時並行処理の活発で不可分な身と心の動きが生の大半を占め、自我の意識がごく一部の些細な現象であることに気づかそうとする禅とは違い、仏教の場合、心は路心という線形の流れで刹那に消滅するドミノ的に変化し続くもので、それらが身や感覚とは異なる出来事であり自我などどこにもないことを気づかそうとするようにも思える。


妄想メモとして備忘録







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