「よくわからないけどイライラしたり、なんか不満でわたし嫌な人になってる」と落ち込んだ時には



よくあるのが、何かとくにはっきりしないけど不満でイライラしたり落ち込んだりする時。

たいていは、ごく普通の計画や希望が上手く行かなかったり、なんだか当たり前のことが認めてもらえなかったり、ちょっと誤解されてしまったり、言葉の行き違いやその場の雰囲気で強く出てしまったり嫌な感じになったりというその程度のものが多いです。

この「その程度のもの」というのがなぜかまた悩みどころで「その程度のこと」で気にかかる自分が嫌になったりとかでまた落ち込んだりします。

他人に対しても「なんだあの程度のことで」と腹を立てたりするのです。

ようは解っているけど治まらないという状況ですね。

実はこれらの「その程度のこと」も「dukkha:ドゥッカ」つまり「苦」なのです。
仏教では「苦」を知ることが悩み苦しみの消滅につながりますので、「この程度のことでなんて情けない」と他人を恨んだり自己嫌悪を続ける必要はないのです。

つまり「なんかイライラする!」、「なんか不満で腹が立つ」という時には、ただ「ああ、これはドゥッカだ」と知ればそれでいいだけなんです。

我々は、原因を探して何者かのせいや何かのせいにしなければ治まらない、解決出来無いという考え癖が付いてしまっているので、なかなか不満やイライラがおさまらないのですが、そのせいで喧嘩や絶交まで発展したり多少なりともクレーマーみたいになったりします。

不満やイライラが実は「ドゥッカ」だと知ればわりと落ち着きやすいものです、それは何だかわからない嫌な病気で悩んでたけど、その病気の名前がわかった時のようなものです。

自己嫌悪や他人を恨むことは終わります。
「病気を治すことに取り組めば良い」という気持ちの切り替えで楽になります。

些細な事でも誰彼が悪いのではなく「皆が大なり小なり同じ病気なんだ」というのは気休めでもなくて仏教では「無明」という事実なんです。
つまらないことでも誰彼のせいではなくて「起こるべくして起こった」という事です、仏教では「因果」、自分に限れば「業」なので、今の自分の心を清らかにするしか方法はないということです。

ですから他人や自分を責めて喧嘩したり落ち込んだりする必要は全く無い、逆効果だというのが仏教的考えです。

「そうは言っても治まらない」という時は、まだ何か責任の所在を決めなきゃ任務が終わらないという生真面目な状態かもしれませんので、「過去は過ぎ去りしもの、無責任野郎と呼びたければ呼べば良いさ」と自分に開き直るのも一つの手です。
ただ、口に出してはいけませんが(笑)

では、ためしに今度イライラした時には「ああ、ドゥッカだね、これって」のひと言を使ってみてください。
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