「自由」という漢字が気になりましたので・・

 今朝坐っていると「自由」という文字が気になりましたので(これも妄想ですが~)、自由(wiki)でググってみると次のように。

「 福沢諭吉がリバティを訳するに際して、仏教用語より「自由」を選んだ。初めは、「御免」と訳す予定であったが、上意の意味が濃すぎると考え、あらためた。」

 一般に「自らに由る」ということですが、おおもとではどのように使っていたのかと気になりました。
 では、仏教の「自由」(漢字)とは?と検索するとアチラコチラにありますが、まあ、あんまり様々な思想に晒されていない阿含経で見てみることにしました。

パーリ経典では中部経典中分の第54経ポータリヤ経です。
まずおおまかに流を見てみますと多少の差異はありますがだいたい似通っています
中に二箇所ほど「自由自在」の文字がありましたので、「自由」という使い方を見てみました。

中阿含晡利多品晡利多經ではつぎの箇所です。
『若有人來不愚不癡亦不顛倒。自住本心自由自在。用樂不用苦甚憎惡苦。用活不用死甚憎惡死。』
私の拙い直訳では
『そこにもし、愚かでなく考えの狂っていない人がやってきます。本心に自住し、自由自在で、楽を用い甚だしい憎悪苦による苦を用いることがありません。活を用い甚だしい憎悪死による死を用いることがありません。』

文章が見事に対応していないのでなんとも言えませんが(汗)パーリ経典の中部経典中分の第54経ポータリヤ経の一部です。http://tipitaka.sutta.org/
『ādīnavo etthabhiyyo’ti. Evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya disvā yāyaṃ upekkhā nānattā nānattasitā taṃ abhinivajjetvā yāyaṃ upekkhā ekattā ekattasitāyattha sabbaso lokāmisūpādānā aparisesā nirujjhanti tamevūpekkhaṃ bhāveti.』

 ここのところは片山一良先生の訳では次のようになります。
パーリ仏典 ①-3  中部(マッジマニカーヤ)中分五十経篇 Ⅰ片山一良著 大蔵出版
『如実に正しく慧によって見て、種々の種々に依存している捨を回避し、単一の、単一に依存している、そこには世間の味に対する執着がすべて残りなく消滅している、捨のみを修習します。』

よくわからなくなりました(笑)。
パーリ経典の方ではこの喩えの中で、「二人の屈強な者に腕を掴まれ引きづられて火坑に引っ張り込まれるとします」と有りますが、漢訳経典では「自住本心、自由自在」となっており、「依存と自立」として対比しても良さそうな感じですが・・とりあえずお経の紹介と「自由」の漢字が使われたと雰囲気をご紹介します。

中阿含晡利多品晡利多經第二 大正蔵検索

 このように私は聞きました。あるとき、佛はアングッタラーパに遊行し、アーパナ園に在られました。時にポータリヤ居士が在家の装束で園におとずれました。
我聞如是。一時佛遊那難大。在波和利㮈園之中。爾時晡利多居士。著白淨衣白巾裹頭。拄杖執蓋著世俗屣。從園至

 世尊は居士に好きな座所に座りなさいと告げましたが。ポータリヤ居士は言いました、ゴータマさん、それはそうではない、そうすべきでない、私は俗事を断った沙門みたいなものです、と。
世尊告曰居士有座欲坐便坐。晡利多居士白曰。瞿曇。此事不然。此事不可。所以者何。我離俗斷俗捨諸俗事。而沙門

 世尊は曰く、あなたは俗を離れたと言うが、どのような俗事を断ったのですか?
 ポータリヤ居士は言いました、一切の財産を我が子にゆずりました。私は為すことも求めることも有りません、ただ命をつなぐために生きています。このように私は世俗の事や欲を捨てて欲から離れています、と。
 世尊は言いました、居士は、聖なる法と律においては俗事を断った事にならないのですよ、と。
世尊問曰。汝云何離俗 斷俗捨諸俗事耶。晡利多居士答曰。瞿曇。我家一切所有財物盡持施兒。我無爲無求遊。唯往取食存命而已。如是我離俗斷俗捨諸俗事。世尊告曰。居士。聖法律中不如是斷絶俗事。

 (ここで世尊は、聖者における八つの正断を説きます。)
殺すことから離れることによって殺すことを断ちます。与えられていないものを取ることによって与えられていないものを取ることを断ちます。邪淫を離れることによって邪淫を断ちます。妄語を離れることによって妄語を断ちます。貪著を無くすことによって貪著を断ちます。害恚を無くすことによって害恚を断ちます。憎嫉悩を無くすことによって憎嫉悩を断ちます。増上慢を無くすことによって増上慢を断ちます。
依離殺斷殺。依離不與取斷不與取。依離邪婬斷邪婬。依離妄言斷妄言。依無貪著斷貪著。依無害恚斷害恚。依無憎嫉惱斷憎嫉惱。依無増上慢斷増上慢。

 (つぎに世尊は様々な喩えをもって、それぞれの僅かな楽味と大きな危難を説きます。もし殺者は・・・不与取者は・・・邪婬者は・・・貪著者は・・・害恚者は・・・憎嫉惱者は・・・増上慢者は・・・と。)

(つぎに様々な喩えをもって欲の危難を説きます)
 また、飢えた犬が屠牛場に来て、・・・・そのように多聞の聖なる弟子は欲は肉片のようなものだと思惟します。
猶如有狗飢餓羸乏。至屠牛處。・・・・多聞聖弟子亦復作是思惟。欲如肉臠。
 また、人が手に松明をもって風上に向かって歩けば・・・・そのように多聞の聖なる弟子は欲は松明のようなものだと思惟します。
猶如有人手把火炬向風而行。・・・・多聞聖弟子亦復作是思惟。欲如火炬。

 (さて、ここでやっと「自由自在」の文字が出てきます)

 また、村から遠くない所に大きな火の坑があり、その中には烟もでないほどに火が満ちているとします。そこにもし、愚かでなく考えの狂っていない人がやってきます。本心に自住し、自由自在で、楽を用い甚だしい憎悪苦による苦を用いることがありません。活を用い甚だしい憎悪死による死を用いることがありません。居士はどう思いますか?この人は火の坑に入りますか?
 居士は答えました、ゴータマさんそれはありません。
 その者は火の坑を見てこのように思惟します。もし、此の火坑に落ちれば疑いなく死にます。仮に死なないまでも極限の苦しみを受けることは定ってます。彼は火坑を見て離れることを思い、捨離を求め願います。
 居士よ、多聞の弟子はまたこのような思惟をします。欲は火坑のようだ、と。
猶去村不遠有大火坑。滿其中火而無烟検。若有人來不愚不癡亦不顛倒。自住本心自由自在。用樂不用苦甚憎惡苦。用活不用死甚憎惡死。於居士意云何。此人寧當入火坑耶。居士答曰。不也瞿曇。所以者何。彼見火坑便作是思惟。若墮火坑必死無疑。設不死者定受極苦。彼見火坑便思遠離願求捨離。居士。多聞聖弟子亦復作是思惟。欲如火坑

 また、村から遠くないところに黒く強い毒をもった大毒蛇がおりとします。そこにもし、愚かでなく考えの狂っていない人がやってきます。本心に自住し、自由自在で、楽を用い甚だしい憎悪苦による苦を用いることがありません。活を用い甚だしい憎悪死による死を用いることがありません。居士はどう思いますか?この人は「私を噛むならば私も噛み返してやるぞ」とその蛇を手づかみすると思いますか?
 居士は答えました、ゴータマさんそれはありません。
 その者は毒蛇を見てこう思惟します。もし私がその蛇を手づかみすれば、それによって私は蛇に噛まれ、死んでしまうことは疑いありません。仮に死なないまでも極限の苦しみを受けることは定ってます。彼は毒蛇を見て離れることを思い、捨離を求め願います。
 居士よ、多聞の弟子はまたこのような思惟をします。欲は毒蛇のようだ、と。
猶去村不遠有大毒蛇。至惡苦毒黒色可畏。若有人來不愚不癡亦不顛倒。自住本心自由自在。用樂不用苦甚憎惡苦。用活不用死甚憎惡死。於居士意云何。此人寧當以手授與及餘*支體。作如是説蜇我蜇我耶。居士答曰。不也瞿曇。所以者何。彼見毒蛇便作是思惟。若我以手及餘*支體。使蛇蜇者必死無疑。設不死者定受極苦。彼見毒蛇便思遠離願求捨離。多聞聖弟子亦復作是思惟。欲如毒蛇

 居士よ、また、人が娯楽により五欲の満ち足りた夢を満つようなものです。目が覚めれば何も見ることが有りません。居士よ、多聞の弟子はまたこのような思惟をします。欲は夢のようだ、と。
居士 猶如有人夢得具足五欲自娯。彼若悟已都不見一
居士。多聞聖弟子亦復作是思惟。欲如夢也。


 また、人が宮殿や庭や乗り物や豪華な衣装や装身具を借りてきてくるようなものです。・・・
多聞の弟子はまたこのような思惟をします。欲は借り物のようだ、と。
猶如有人假借樂具。或宮殿樓閣或園觀浴池或象馬車乘或繒綿被或指環臂釧。或香瓔珞頸鉗。或金寶華鬘或名衣上服。・・・・多聞聖弟子亦復作是思惟。欲如假借。

 また、村から遠くないところに大きな果樹園があり、美味しい果実が常に実っているとします・・・多聞の弟子はまたこのような思惟をします。欲は果実のようだ、と。
猶去村不遠有大果樹。此樹常多有 好美*果。・・・・多聞聖弟子亦復作是思惟。欲如樹*果。

 當に、これらを聖なる法と律の八正断を修習し、俗事を断絶するならば作證を得る。
當修習彼。是謂聖法律中更有此八*支斷絶俗事而得作證。

(つぎに色界禅定に達すること説きます。)
(適当ですみません、ここの禅定と次の解脱は詳しい所で調べて下さい・・)
 彼が靖の内に息を観て一心なれば覚りあり。覺無く観無く、定により生まれた喜楽を得れば第二禅となりそこに遊ぶ。喜欲から離れれば、求む事無き捨に遊ぶ。正念正智にて身の楽を覚えば、所謂聖の説く聖なる捨である。その楽を念じ住する所に第三禅を得て遊ぶ。楽も滅し苦も滅し、喜も憂も本より滅し終われば、不苦不楽の清淨なる捨の念なる第四禅となりそこに遊ぶ。
彼有覺有觀息内靖一心。無覺無觀。定生喜樂得第二禪成就遊。彼已離喜欲。捨無求遊。正念正智而身覺樂。謂聖所説聖所捨。念樂住室得第三禪成就遊。彼樂滅苦滅。喜憂本已滅。不苦不樂捨念清淨。得第四禪成就遊

(そして解脱智見に達することを説きます。・・・重ね重ね適当ですみません(笑))
そしてつぎの正見と智が、心解脱、慧解脱、解脱したと知る智が生じます。
彼如是知如是見。欲漏心解脱。有漏無明漏心解脱。解脱已便知解脱。




















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