達磨・ダルマ・だるま語録の感想文なので、あしからず。(柳田聖山著「ダルマ」筑摩書房・「達磨の語録」講談社学術文庫) 第二部

・11 空定とは何の事ですか?
 答:あらゆる存在の有り方を看ながら、その存在が空であることを観察する瞑想に留まるを空定という。
 問:では、法に留まるとは何ですか?
 答:瞑想の留まるべきところにも留まらず、留まるべきでないところにも留まらず、変化生滅するありのままの世界に留まることが、法に留まるというのだ。

・12 男のままで男で無い、女のままで女で無いとはどういうことですか?
 答:法の観点から突き詰めれば男女の性別は捕らえようが無い。
 何故かと言えば、物質には男女の性別など無い、もし有るのならば一切の草木も男だったり女だったりするはずだろう?色情に血迷っているから男女の姿というものを自分勝手に分別して妄想するだけだ。
 それは、幻の中の男女の姿にすぎない、つまるところ実体は無いんだよ。

・13 羅漢の果を得たものは目覚めた者ですか?
 答:夢の悟りだよ。
 問:では六波羅蜜を行じ、不生不滅を悟り、正覚し、涅槃に入り、道を得る者、皆是れ悟りでは無いのですか?
 答:夢だよ、心で持って分別し計り数え、自分で量り現わせた者は皆な夢の産物だよ。
 意識で妄想した夢の中の智恵だから悟りもなにもない。
 もし、正しく悟った者は自分から悟ったのでもないし、究極のところ悟りすら無いんだよ。
 三世の諸仏の正覚などは皆の憶想分別なだけだ、だから夢といったんだ。
 もし、心意識が寂滅して、一つも念の動くところが無ければ正覚と言ってもいい、だいたい、心意識のあるものは皆な夢といってもいい。

・14 道を修め惑いを断つのにどういった心の智恵が必要でしょうか?
 答:方便という智恵が要るな。
 問:方便の智恵とはどのようなものでしょうか?
 答:惑いを観察して、惑いがもともと起こる処が無いことを知り、それを方便として疑いや惑いといったものを断つことが出来る。
 だから心の智恵というんだよ。
 問:ありのままの心が何の惑いを断つのですか?
 答:凡夫外道、声聞縁覚、菩薩等といった解釈をする惑いだよ。

・15 二つの真理とは何でしょうか?
 答:例えば陽炎のようなもので、惑えるものは陽炎を見て水だと想うが、実際水ではない、ただ陽炎にすぎない。
 二諦の義もまたそのようなものだ、凡夫は第一義諦を見て世諦とするが、聖人は世諦を見て第一義とする。
 世諦は第一義諦にして空だ、だからもし、物の姿形、その特徴というものを見てもすぐに始末しなさい。
 問:どのように始末するのですか?
 答:もし法に依って看れば、世諦での見方というものが失われて、一物も認めることが無い。

・16 心と法について
 法というのは答える事が出来ない。
 法は意識を超えているが、答えるとすぐ意識が生じる。
 法は言葉による説明を超えているが、答えとすぐに言葉による説明に堕ちる。
 法は理解の範囲を超えているが、答えれば理解しようとする。
 法は知識の範囲を超えているが、答えれば知識にしようとする。
 法は相対分別を超えているが、答えれば相対分別に陥る。
 このような認識や言説は計らいや執着に過ぎんよ。
 心は物ではない、物で無いものでもない、心が何物にも属さないところが解脱だよ。
 空を知ったといっても、空もまたつかむことが出来ない、つかむことが出来ない事を知ったといったところでそれもまたつかむ事はできないよ。

・17 もし心の中に大事なものがあると・・・

 もし心が大事にするところがあれば、必ず賤しむところがある。
 もし心が正しいとするところがあれば、必ず正しくないとするところがある。
 もし心があるものを善いとすれば、一切のものは善くないとする。
 もし心があるものを親しいとすれば、一切のものは怨みとなる。
 もし心がどこかに留まることがあれば、鎖に繋がれたということだ。
 もし一つの法を重んじれば、その法が君を繋いでしまうだろう。
 もし一つの法を尊重すれば、心は必ずその他を卑しむ。
 もし経論の意味を理解しようとするのならば、理解できるところを善しとしないことだ。
 理解できるところがあれば、心はそのところに支配され、縛られてしまう。
 もし心が迷いに陥っても、迷いの無いところがあると考えてはいけない。
 もし心が起こった時は、すぐに法に依って起きた処を看るべきだ。
 もし心が分別をした時は、すぐに法に依って分別した処を看るべきだ。
 もし貪り、怒り、間違った見解なども、すぐに法に依ってその起きた処を看るべきだ。
 起きる処を看る事がなければ、道を修めたといってもよい。
 もし、ものに対して分別がなければ、道を修めたといってもよい。
 ただ、心が起きる事があるならば、すぐにも法に依って始末する事だ。


・18 道を得ることの速い遅いはあるのですか?
 答:百千万劫ちがうね。
 問:どうすれば早く道を得ることが出来ますか?
 答:心が道の体だから、自分に迷いが起きた事を知れば、すぐに法に依って観察し尽くしなさい。
 問:なぜ心は道の体なのですか?
 答:意識の筆を以って分別して色・声・香・味・触を描きだして、また自分でこれを見て貪瞋痴を起こし、見解をたて、執ったり捨てたり、さらに心意識をはたらかせて分別して種種の業を起こすばかりだ。
 もし、心がもともと空寂でどこにも属さない事をしれば、これが道を修めたということだよ。

・19 理法の三宝によって道を実現する
 もし仏法僧に依って仏道をおこなう時は、善悪好醜・因果是非・持戒破戒等の見解をたててはいけない。
 このような計らいを起こす者は、みな迷いによって自分の心で現わすだけで、すべてを隔てる境界などというものは、自分の心より起こることを知らないからだ。
 一切法が有でないということなど、このようなもので、自心現量とは、みな迷う心が是だとか非だとか作るだけなんだよ。
 また、仏の智恵がが優れている等と考えることも同じで、自分の心で有りとか無いだとか作って迷っているだけ。
 もし心を正そうとするのならば、一切の法を畏れず、一切の法を求めてはいけない。
 また、法や仏を以って道を修めようとするのならば、心は石のように無関心で、ボーッとして知覚せず、分別せず、すべてフラフラと痴人のようにしなさい。
 なぜなら、法は人の知覚や理解を超えているからだよ。

・20 古典によって悟った人は力が弱い
 事実の中に法を見るものは、何処においても気づきを失わないし。
 文字の中から理解しようとするものは、事実に面すれば眼が暗んでしまうね。
 だから、口に事実を語り、耳に事実を聞くよりも、自身の身心に親しく事実を経験する方がいい。
 また、道を修めようとする人は、しばしば賊にものを盗まれたり、すっかり剥ぎ取られても愛著の心を起こさず、また悶え悩まず、またしばしば他人に口汚くののしられ、殴り飛ばされても、悶え悩まないなら、このような人こそ道心がいよいよ壮んとなり、年を経てもやむことを知らず、自然にあらゆる順逆の境涯に在って全く無心のままだね。
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