追善供養と功徳

追善供養と功徳、善行為について

 お葬式や年忌法要などは追善供養のために営まれます。

 追善供養とは、「本人の代わりに、私が善い事をし、その功徳の結果を廻向して支えとして差し上げます。」という供養です。功徳廻向といった方がわかり易いかも知れません。

 仏教では自業自得といって、「自分の行なった行為の(業)の結果は自分に返ってくる」法則があります。つまり、生きている間に自分で行なった善い事は善い結果となって次の生まれに影響するということです。

 でも、死んでしまったら今、ここでは何もできませんから、死んでしまった人が次のところでも幸せであって欲しいと願う人が、自分で善い事をして、その功徳の結果を、死んでしまった人の支えとなりますように心で宣言することなんです。
 食べ物や持ち物といった物質が届くことはありません、心と因果法則の結果が届くのです。

 自分の行なった事の結果は自分に戻りますから、他人、特に死んだ人には関係ないのでは?と思われるかもしれませんが、自分の功徳は自分に結果として帰ってきます、それと同時に、「誰々に廻向します」と言った事実も結果として伝わるのです。 
 それを知って廻向された人は善い心のエネルギーで幸せを感じるのです(随喜),その幸せな心が幸福(果報)を生むのです。
これが追善廻向の法則です。

 では、その善い事、善業、功徳とはどんなものかというと、人や生き物の助けとなること、役に立つこと、心穏やかに明るくなること、みんな善い事です、功徳(プンニャ)です。

 しかし、なかなか出来ないこと難しい事は、より高度な善行為(クサラ)といわれます。
人は遊びたい、楽しみたい、楽したいという欲があります、それが邪魔されるとたいていは怒りが出ます、欲が最初なんです、惜しい、妬ましい、は欲から出た怒りです。

 苦しみの発端である欲に打ち勝つ行為は、ただの功徳を超えて高度な善行為です。それゆえに仏教では「自分のものを与えること=布施」が一番最初に掲げられるのです。
お布施は物ではなく、行為を意味します。

ただし、全ての善行為と呼ばれるものは善心によって成り立ちます、つまり善い心で人のためになる行為を行うから善行為なのです。
心の法則から見れば身体や物品の行為が伴わなくても、善い心であろうとがんばることは善行為なのです。

落ち着いた静かな心で、わだかまりのない、怨みのない、憎しみのない、心を育てれば善い心となるのです、善行為にもなるのです、この心は自分に、自分の親しい人に、すでに一緒に生きているもの達にも、将来生まれるであろうもの達にも、役に立つ心なのです。

お釈迦様はこの心を限りなく育ててくださいとおっしゃりました。

 以上、追善廻向と功徳、善行為、布施について。

この功徳によって、全ての生きとし生けるものが幸せでありますように。

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