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ダルマ語録のなかのお気に入り

ダルマ語録
素直な心が道である。なぜならば、素直に考え、素直に行動する人は空を観察しない。

ダルマ語録
眼の見るところが実際であり、一切の法は皆これ実際である、さらに何をもとめようとするのか。

ダルマ語録
もし心が何処にも属さないのを悟れば、すなわち道を得たといえる。なぜならば、眼が一切の色を見て、眼が一切の色に属さないのは本質的な開放であるし、耳が一切の法を聞いて、耳の一切の声に属さないのは本質的な開放である。

ダルマ語録
法を説けばそれに惑わされる、だから法はあるが説明できない。名があり、字があればこれに惑わされる。

ダルマ語録
禅定に縛られているだけだよ、どんな禅定も一旦静かだが、すぐまた乱れる。たいしたものではない。

ダルマ語録
もし一つの法でも是を優れたものと思えば、法が君を縛り殺して有心の中に落ちて出られなくなる。頼るべき物じゃない、だって世間では名や字に縛られた人だらけだろ?

ダルマ語録
有るとか無いとか、一切の存在を分別することが妄想だけどね。

ダルマ語録
欲の心がおきれば、欲の姿を見るのではなく、欲という理法を観るのだ。苦しみがおきれば、苦しい姿を見るのではなく、苦しみという理法を観る、夢の姿を見ずに、夢という理法を観るのだよ。

ダルマ語録
歩いている処が悟りの処、寝ている処が悟りの処、座っている処が悟りの処、立っている処が悟りの処、足を上げる下げる、みな悟りの処なんだよ。

ダルマ語録
たとえ君が色々な見解をしたところで、全部自分で計ったり組み立てたりした妄想概念だからな

ダルマ語録
だいたい有名人がすごい事を言うからと皆集まるが、そもそも心の事実の在り方に言葉や説明が要るのかどうか自分で観察することだね。

ダルマ語録
分別する心が無い事を正というし、物事を理解したというのは邪だね。  まあ、邪とか正とか思わないから正なんだがね。

ダルマ語録
事実の中に法を観察する者を利根の者というし、理解を求めて、義理や是非といった見解に囚われるものを鈍根の者というのだよ。

ダルマ語録
物に対して見解を起こさないのが極めるということであって、物に対して貪りが起きず、物に対して悩みが起きない事を極めたというのだよ。

ダルマ語録
瞑想の留まるべきところにも留まらず、留まるべきでないところにも留まらず、変化生滅するありのままの世界に留まることが、法に留まるというのだ。

ダルマ語録
もし貪り、怒り、間違った見解なども、すぐに法に依ってその起きた処を看るべきだ。起きる処を看る事がなければ、道を修めたといってもよい。

ダルマ語録
意識の筆を以って分別して色・声・香・味・触を描きだして、また自分でこれを見て貪瞋痴を起こし、見解をたて、執ったり捨てたり、さらに心意識をはたらかせて分別して種種の業を起こすばかりだ。
事実の中に法を見るものは、何処においても気づきを失わないし。 

ダルマ語録
文字の中から理解しようとするものは、事実に面すれば眼が暗んでしまうね。 だから、口に事実を語り、耳に事実を聞くよりも、自身の身心に親しく事実を経験する方がいい。

ダルマ語録
道を修めようとする人は、しばしば賊にものを盗まれたり、すっかり剥ぎ取られても愛著の心を起こさず、ま た悶え悩まず、またしばしば他人に口汚くののしられ、殴り飛ばされても、悶え悩まないなら、このような人こそ道心がいよいよ壮んとなり、年を経てもやむこ とを知らず、自然にあらゆる順逆の境涯に在って全く無心のままだね。

ダルマ語録
ありのままのこの世界で妄想する事は邪な生き方をするだけだし、法を求めようとあれこれ考えても、悟る縁となる因果関係にはこれっぽちも足しにならない。

ダルマ語録
当たり前のようだけどそれを知らないのか、実際のところ、煩悩を捨てて涅槃を求めるのは形を無くして影を求めるようなもので、自分を離れて仏を求めるのは黙って音を立てずに響きを探すようなもの。

ダルマ語録
諸仏が「空」を説くのは諸々の見解を捨てさせるためで、それなのに「空」に執着してしまったら諸仏もお手上げだよ。

ダルマ語録
「ものを求めない」と言う人も、求めない事を求めているし、「ものに執着しない」と言う人も、また、執着しない事に執着しているものだよ。

ダルマ語録
例えば、「柱」を見て「柱であると想う」のは、「柱という姿」を見て「柱と想う」だけのことであって、自分の心が「柱である」と認識しただけだと観れば、実際に「柱の姿」というものは無い。 このようにすれば「柱」を見て「柱という法の原理」を得ることが出来る。 これは一切の物体を見る時もおなじ。

ダルマ語録
もし、何かを正しいとすれば正しくないものがほとんどだし、正しいという考えが無ければ正しくないものはない。

ダルマ語録
もし、何かを得ようとすれば得られないものがほとんどだし、得ようというのでなければ得られないものは無い。

ダルマ語録
見解・分別といった見方で見ても見えないものがたくさん有るし、見解・分別といった考え方で知ったと思っても知らない事だらけだ。

ダルマ語録
生まれる時は因果関係が生まれたということ、滅する時は因果関係が滅したということ、一つの法が生まれたとか、滅したとかいうものではない。 一切の法は貪欲のために起きる、分別は空しいのに凡夫はそのために焼かれてしまう。

ダルマ語録
実際のところ、煩悩を捨てて涅槃を求めるのは形を無くして影を求めるようなもので、自分を離れて仏を求めるのは黙って音を立てずに響きを探すようなもの。

ダルマ語録
ありのままのこの世界で妄想する事は邪な生き方をするだけだし、法を求めようとあれこれ考えても、悟る縁となる因果関係にはこれっぽちも足しにならない。

ダルマ語録
皆な常に迷ってあれやこれやと貪著している事が「求める」ということで、経には「求める事があるから苦しみがある、求める事をやめれば楽というものだ」とある、求めない事は仏道を行うことだよ。

ダルマ語録
清浄道というのが法の名だから、物惜しみせずに助け合いなさい、これは実のところ自分の為であり、またそのまま他の為でも有る、そして悟りの道を助けることになる。

ダルマ語録
今の苦しみも楽しみも過去の因縁から生まれたものだから、一喜一憂する必要はないということ

ダルマ語録
今の苦しみは過去に自ら蒔いた種によるものだから堪忍すること。

ダルマ語録
仏教の大まかな根本の所を理解し、今は妄想に覆われて真実が見えずに居るという事を信じること

達磨・ダルマ・だるま語録の感想文なので、あしからず。(柳田聖山著「ダルマ」筑摩書房・「達磨の語録」講談社学術文庫) 第七部

・61 地獄にゆくもの
僧:私は地獄を怖れて懺悔修道しています。
恵:君いう我は何処に在って、どのような物なんだね?
僧:我の所在は知りませんが。
恵:我すら所在が解らないくせに誰が地獄に堕ちるんだ?どのようなものかも知らないなら、妄想して有ると考えているだけだろ、そういった妄想で有ると思っているから地獄があるんだ。

・62 石をきざんで仏を作れば
僧:道が皆な妄想のなせるものなら、妄想が作るものとはなんですか?
恵:法に大小、形相、高下は無い。
例えば庭に大石があって登ったり座ったりするのになんの恐れもないが、一度発心して仏像を描いてしまったら、罪を怖れてもう登ったり出来ないだろ?君の心が是とするだけだ。
石や絵の具に罪や福は無い。みな君の心が意識の筆を持って分別して是れとしているだけだ、悉く君の妄想だ。

・63 四種の説法
僧:仏はどれほどの種類の説法をなさったのですか?
恵:法身仏はずばり虚無の真理を説き、報身仏は全て妄想で実体が無い事を説き、智恵仏は知覚の離れた真理を説き、応化仏は波羅蜜を説いた。

・64 楞伽師の教え
問:心は過去未来の事に縛られています、どうすればこれを止めれるでしょうか?
楞:心が生じても不生不滅です。なぜならば、心が生じるといっても東西南北いずれかから来るわけでもなく、もとより来る処が無ければこれは不生であるし、すなわち不滅である。

・65 業は断じようがない
問:心が繋がれて業となるならどうやって断つことが出来ますか?
答:もとから心は無いものだから、断つ事はできないだろ?この心は生じる処も無いし、滅する処も無い。妄想で生じた法だからね。
経には「業の罪は何処から来るのでもない、ただ転倒した心から生じる」とあるが疑ってはだめだ。

・66 顕禅師の教え
問:薬とはなんですか?
顕:大乗の教えは全て病気の為にある、心が病気で無かったらどうして薬が要るだろう。有という病気の為に空という薬を説き、我という病気の為に無我の薬を説き、生滅には無生滅を、愚には智恵を、邪には正見を、迷いには悟りを説くのであって、病気でなければ薬は必要で無い。

・67 喧禅師の教え
問:道の体とはなんですか?
喧:心が道の主体だよ。これは実体は無いが主体であって、有でも無でもない。
なぜかと言うと心は無性だから有でないし、縁で生じるから無でもない、形相が無いから有でないし、動いて止むものでも無いから無でもない。

・68 淵禅師の教え
一切の存在が空であると知れば、知るものも知られるものも空である。知るところの智恵も空であり、知られるものの存在の法も空である。

・69 蔵法師のことば
一切の法に得るところが無い者はこれを修道の人と名づける。なぜならば、経典には「心が何も得ない時、仏は悟りを保障する」また「一切の法は得ることが出来ない、得ることが出来ないということも、また得ることが出来ない」とある。

・70 賢禅師のことば
眼の見るところが実際であり、一切の法は皆これ実際である、さらに何をもとめようとするのか。

・71 安禅師のことば
素直な心が道である。なぜならば、素直に考え、素直に行動する人は空を観察しない。
経には「直視は見ず、直聞は聴かず、直念は思わず、直受は行ぜず、直説は煩わしくない」と。

・72 燐禅師のことば
存在には実体が無いのだからありのままに行動して惑ってはいけない。
経にいう「もとより無心なるがゆえに、ありのままの心なるがゆえに無である」と。

・73 洪禅師のことば
あらゆる行動はみなありのままである。色を見、声を聞くもありのままである。一切の法もまたありのままである。
経にいう「衆生もありのまま、賢聖もまたありのまま、一切の法もまたありのままなり」と。

・74 覚禅師のことば
もし心が何処にも属さないのを悟れば、すなわち道を得たといえる。なぜならば、眼が一切の色を見て、眼が一切の色に属さないのは本質的な開放であるし、耳が一切の法を聞いて、耳の一切の声に属さないのは本質的な開放である。

二十世紀発見の敦煌本はここで終筆していて、最後に写字生の戯言が書いてあるそうです、なかなか面白いので最後の締めにどうぞ。




書を写して今日おわる
何によってか銭を送らざる
誰か家の無頼漢ぞ
面を廻して、相看せざる

達磨・ダルマ・だるま語録の感想文なので、あしからず。(柳田聖山著「ダルマ」筑摩書房・「達磨の語録」講談社学術文庫) 第六部

・51 理法によるのか、それとも人によるのか
問:いったい法に依るのか、人に依るのかどっちでしょう?
答:私は法にも人にも依らなかったが、法や仏が優れていると依れば惑わされる、ある人が優れていると依れば惑わされる、真実は人の知る所に無いというのも自分に惑わされる。

・52 志法師の質問
志:屠殺を見ましたか?
縁:眼があるからね、見えないことは無い。
志:じゃあ、見たんですね?(屠殺等を見に行く事は戒律で禁止されてる)
縁:君はまだ更に見てるよ。

・53 さまざまの考え
志:凡夫、二乗、縁覚、外道、慈悲、色々の立場から様々な見解をするが、どうやったら見解の過ちから離れる事が出来るのでしょうか?
縁:私はそんな煩い見解はしない、全部名づけて見という。そのような種々の妄想をするから自分で惑わされるのだ。

・54 理法は人に教えられぬ
問:なぜ私に法を教えてくれないのですか?
縁:法を説けばそれに惑わされる、だから法はあるが説明できない。名があり、字があればこれに惑わされる。

・55 道とは何か
問:道とはなんですか?
縁:心を発して道に向かえば詮索の心が生じる、道を起こそうとすれば巧く騙そうとする。
若し妙解を求めず、師になろうとも思わず、法を師としようとしなければ自然に独歩できる。鬼魅の心を起こさないならば、君を指導しよう。

・56 ばけもの
問:鬼魅の心とはなんですか?
縁:眼を閉じて定に入る。
問:私は禅定で心動揺しませんが?
縁:禅定に縛られているだけだよ、どんな禅定も一旦静かだが、すぐ復乱れる。たいした物ではない。
もし一つの法でも是を優れたものと思えば、法が君を縛り殺して有心の中に落ちて出られなくなる。頼るべき物じゃない、だって世間では名や字に縛られた人だらけだろ?

・57 可法師の教え
問:どうすれば聖人になれるでしょうか?
可:凡とか聖とか妄想に過ぎんよ。
問:妄想ならばどうやって道を修めるのですか?
可:君は道をどう言う物に思っているのか?どう修したいのか?道に上下は無いし、去るとか来るとかも無い。

・58 安心の教え
恵:私を安心させてください。
師:君の心をここに持って来たら君のために安定させてあげよう。
恵:私のために心を安定させて欲しいのです。
師:例えば着物を作って欲しいという時は布を持ってくるべきだろう?空気を裁断出来ないだろ?それと同じだよ、心を持って来れないのなら心を安定させる事は出来ない。私には虚空を安定させる事は出来ないよ。

・59 懺悔の教え
僧:私を懺悔させてください。
恵:君の罪をここに持ってきなさい懺悔させてあげるから。
僧:罪は形のない物ですから無理です。
恵:もう懺悔し終わったから向こうに行きなさい。

僧:私の煩悩を断ってください。
恵:煩悩なんかどこにあるんだ?
僧:どこにあるのか知りませんが。
恵:それじゃ虚空のようなものだ、虚空を断つ者なんか居らんわ。
僧:経典に「一切の悪を断ち、一切の善を修めて、成仏する事を得る」とありますが?
恵:それは妄想だよ自分で現した物にすぎんよ。

・60 成仏の教え
僧:十方の諸仏は皆煩悩を断って仏道を成じたとありますが?
恵:君がみだりに計り考えたことで根拠のあることじゃない。
僧:仏は何を以って衆生を救済すのですか?
恵:もし鏡に映った者が人を助ける事が出来るのなら、仏も人を助ける事が出来るだろうね。

達磨・ダルマ・だるま語録の感想文なので、あしからず。(柳田聖山著「ダルマ」筑摩書房・「達磨の語録」講談社学術文庫) 第五部

・41 罪の本質
問:凡夫はなぜ悪道に堕ちるのでしょうか?
答:私が有るために愚かなのだ、愚か者は「私は酒を飲むと」言い、智者は「じゃあ酒が無い時にはなぜ無い酒を飲まないのだ?、百歩譲って、無い酒を飲んだとしても君のいう私はいったい何処に在るんだい?」と。
愚か者はまた言う「私は罪を作ってしまった」と、智者は「いったい君の罪はどんな姿をしてるのか?」と。
これはみな縁に依って生じたものでそのものの性質は無い。
生じるときに既に私が無いことを知れば、誰が作り、誰が受け取るということは無い。
人が地獄に堕ちるというのは、心に私というものを計って想像し分別して、私は悪を行って私がその報いを受ける、私は善を行って私が果報を受けると言ってるだけだ。

・42 自我を救うもの
問:だれが私の自我を救うのですか?
答:法が自我を救う、なぜわかるかといえば、姿形現象に執着するから地獄に堕ちるのであって、理法を観察するから解脱するのだよ。
もし物の姿形を見て想像するならば、すぐに現実に生死の現象を見るのであって、妄想分別無ければすぐに存在のあり方そのものなんだよ。

・43 存在の本質
問:どのようなものが存在のあり方現れですか?
答:心と身体、これが存在の本質的な現れだよ。
この存在の本質的なあり方は実体無く、限り無く、広大で虚空のように見ることは出来ない。これが本質的な存在の世界だよ。

・44 理法を知る
問:そうやれば理法を知る事が出来ますか?
答:理法は感覚や知覚を越えたものだから、もし心が感覚や知覚を超えたならば君は理法を知る事が出来るのだ。
また、理法は認識や見解を超えている、もし君の心が認識や理解を超えたならば理法を観る事が出来る。
すべての理法を得ないことを理法を得たといい、すべての理法を見ないならば理法を観たといい、すべての理法を分別しないならばすべての理法を分別したといえるのだよ。

・45 見ることを超えた理法と覚者
問:理法が見る事出来ないのならば、どうやって障りのない見方でしょうか?
答:知らない事は障りのない知り方だし、見ない事は障りのない見方だ。

問:理法が覚りを超えたものであるなら、仏を覚者というのはなぜですか?
答:覚りの無いところが覚りであり、理法と同じく覚るのが仏の覚りだ。
もし心の姿を看て、法の姿を看て、つとめて心所を看て、これが寂滅だ、無生だ、解脱だ、空だ、悟りだ、無処処だ、これが法界だ、道場だ、法門だ、智慧だ、禅定無碍だ、とすればだ、そのような見解を作った者は、まあ、無残な生ける屍だな。

・46 六種のハラミツ
問:六波羅蜜は一切智を生じるのでしょうか?
答:波羅蜜などというものは自もなく他もないのだ、誰が受けるとか、得るとかあるだろうか。
生きとし生けるものは業も果報も共にするのだ、幸福と姿形を分ける事は無いのだよ。
涅槃や真如は見ようとしない、無駄な論議を起こさず、心意識の想いを離れて、方便にこだわらない、このようなものを「ありのまま」と言うのだ。
この「ありのままの世界」では方便は使えないし役に立たない、それで波羅蜜(完全な悟り)と呼ぶのだよ。

・47 開放された心
問:なにを解脱の心というのですか?
答:心は物質で無いから物質に属せず、非物質で無いから非物質に属さない。
心は物質を映すが物質に属さず、非物質を映すが非物質にも属さない。
心は姿形で見る事はできず、物質ではないが、物質でないから空だという事ではない。
心は物質と心のあり方を超えているが虚空と同じではない。
菩薩はあきらかに空と不空を顕にするが、小乗は空は認めても不空は認めない、声門は空を得ても不空を得ることが出来ない。

・48 さまざまな妄執
問:一切の理法は有でなく無でもないというのでしょうか?
答:誰かが、心というものは姿形が無いのが存在の本質である、心は物質でないから有では無し、働いて留まることがないから無ではない、だとか、また働いても常に実態はないので有ではない、実体は無いが常に働いているから無ではない、等と言ったり、実体がないから有でなく、縁に依って起きるから無ではない、凡夫は有に執着し、小乗は無に留まる、菩薩は有にも無にも留まらない、と言うならば、このような見解を妄想というのだ。
また、見えるものを見ず、見えないものを見ないことを、存在を見るといい、知られるものを知らず、知られないものを知らないことを存在を知るという、このような見解も妄想というのだよ。
また、様々な心のありように対して分別し、名前を付け、説明しているが、このような理解・解釈をしている者は、妄想転倒して自分で境界を作っていることを終わらせる事が出来ないならば、その心を波浪心とよぶのだよ。

・49 自分の心が現じたものとは?
問:どのように自分の心が現すのでしょうか?
答:有るとか無いとか、一切の存在を分別することが妄想だけどね。

・50 縁法師のことば
問:何を心の結ばれといい、何を心の癖というのですか?
縁:生滅する心が結ばれだし、生滅がないと思う事が心の癖だね。
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