法事をして何かいいことある?

「法事をしていて何か幸福が得られるのでしょうか?」と、聞かれはしませんが、法事に来られた皆様の顔に書いてあるように思えてなりません、被害妄想かもしれませんが(笑)

ということで、まず、私達にとって幸せとは何か?と考えると、大雑把ですが次のような事も入ってそうです。

・希望が叶うこと
・今あるものが失われないこと

逆から見ると、希望が叶わない、失いたくないものが失われる、ということは幸せの反対の不幸ともとれます。

法事をしていてどうでしょう?

「色々なことがありましたが全て過ぎ去ります、どんどん変わっていきました」と、誰から言われるでもなく心の中から実感します。
また、「色々計画や希望がありました、叶ったことも叶わないこともありましたが、父母・兄弟・親族・友人のおかげでなんとか今のように生きています、有難いことです」と、ちょっと謙虚に感謝したりもします。

はたと、今この瞬間に思いを戻すと、生きているという素朴な幸せが同時進行で流れているようにじんわりと感じる気がします。

それは、幸せとは何かを得たり、何かになったりするだけではなく、今ここに既に自分なりにあるものだと気付くことにもなります。

宝くじが当たった!みたいな体に悪そうな副作用いっぱいの爆発的喜びじゃなくて、落ち着きと気付きから生まれるすごく滋味な喜びですが。

じつは不幸とは、希望や失いたくないという気持ちにくっついているものだと気づいたりもします。


板橋禅師がよく仰られた言葉は渋柿が甘くなるような懐かしく親しい感じがします。
でもほんとに日常から離れない親切な教えなのですね。

「ああっ、このままで幸せだったのだ」と気づくことが幸せなんだよ、自分の外に探し求めるのではなく、今ここにあるということに気づくことだよ。











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「お盆に施餓鬼供養するんだけど、何をお供えしたら良いの?、みんないろんな事言って解らないよ~」とお迷いの方、このお経をどうぞ。

戸外経     小部経典

彼等は住家の外に、又は街の四辻に立ち、或は各自の家に行きて戸口に立つ。

過去の業に縁りて、多くの食物・飲物や、硬き食物、軟き食物の供へられたる時、誰も此等の有情を記憶するものなし。

是の如く、慈悲のある人は、因縁ある者の為に、清浄にして、すぐれたる、時に適したる食物・飲物を与ふ。

「こは汝ら因縁あるもののためとなれ。因縁あるものは満足してあれ」とて、彼等は此処に集まり、集まりし因縁のある餓鬼等は、多くの食物・飲物に非常に悦び、「此等のものを受けたるその人々によりて、我等因縁あるものは長く生きん。

我等のために供養はなさる。また施主は果てなきことなし」と実に此の世界には耕作もなく、牧畜もなく、商業の如きもなく、金を以って売買することもなし。此の世から受くることによりて、死の世界の餓鬼は生きて行く。

高き処の水の低きに流るゝが如く、是の如く此の世からの施物は餓鬼に利益あり。

溢るゝ川の流の海を満たす如く、その如く此の世からの施物は餓鬼に利益あり。

「我に施したり、我に善行をなせり。彼等は我が因縁あるものなり、友なり、仲間なり」。過去の業を憶ひ起こして、餓鬼等のために布施を与へしめん。

泣くことも、悲しむことも、其の他歎くことも、餓鬼等のためには何の益ともならず。是の如く因縁あるものは立ちてあり。

されど、此の施物の僧園に与へられ、仕様せられなば、長く死人の利益となり、よく彼を利す。

此処に記されたるこれは、因縁あるもの対する義務にして、餓鬼には大いなる供養がなされ、比丘には力を与ふ、又汝等には少なからざる福が得られる。

おわり

お盆ってなに?

お盆について


 親しい親類、縁者が集まり、亡くなった方の徳を語り、尊敬の念を懐くことは、それぞれの心に敬譲と慈愛の心をつくることですから、とても意味のあるそして価値のある行事です。

 さて、仏教がこの古の先祖供養に関るにあたって、二つの経典を拠所としています。

 一つは「盂蘭盆経」です。
 お盆の語源であるこのお経は、お釈迦様の十大弟子の目連尊者のお話です。「目連尊者が亡き母は今どうしているのか、神通力で見たところ、母は餓鬼道に落ち、飢えと乾きに苦しんでいました。しかし、目連尊者一人の力では母を救うことが出来ず、雨季の修行が終わり僧たちが集まる七月十五日に、全ての僧に食事の供養をし、皆の功徳力で目連尊者の母は瞬時に餓鬼道から天界に生まれ変わった。」というお経です。

 二つは「救抜焔口餓鬼陀羅尼経」です。
 お釈迦様の十大弟子の阿難尊者が、焔口餓鬼から「あなたは三日後に寿命が尽きるでしょう、それを変えるためには、全ての餓鬼、精霊、神々に食事のお供え物をしなければなりません」と教えられ、そのために必要な「お供え物やお水を無量に増やすお経」や、「一切の餓鬼、精霊にこれを知らせるお経」などが書かれているお経です。
この二つの経典を合わせて、古の先祖供養に読まれているわけです。
 
 仏教では次ぎのように説きます、「私たちは今生の父母以外にも、無始なる過去から数限りない父母に育てられて来ました、その何万・何億という父母の中には、今、天界に暮らす者もあれば、今、私たちの住むこの世界で暮らしている父母だった者もいます。しかし、中には餓鬼道に落ちて過去から現在まで飢え渇きに苦しみ悲しみ嘆き、かすかな縁者の救いを願い続けている父母も大勢居ます。」と。

 その縁ある父母であった人々の為に救いの心を差し向け、天界に生まれ変わることを願い、一切の餓鬼に供養を施しましょうというのが「施餓鬼供養」の意味です。この施餓鬼供養は思い立ったら一年じゅう何時でも行なうのが善いとされています。
 また「盂蘭盆」とういうのは「ウラバーナ」という言葉で「逆さ吊りの苦しみ」の事です。
 
 では、お盆を迎えるにあたって、今生の父母、ご先祖さま、限りない数の過去の父母、そして一切衆生である「生きとし生けるもの」に「幸せでありますように・悩み苦しみがなくなりますように・願いがかなえられますように」と分け隔てのない慈愛の心を作ってくださいませ。












「もともとの仏教には先祖供養なんか無かったんだよ」みたいな話、よく耳にしますが。ところがあったんですね~(笑)

どうです?以下の一文を見るだけで先祖を供養する言葉であることが解るでしょう。


Khudadaka Nikaya Petavatthu   小部経典 餓鬼事経

Evaṃ dadanti ñātīnaṃ ye honti amukampakā suciṃ paṇītam kālena kappiyaṃ pānabhojanaṃ idaṃ vo ñātīnaṃ hotu sukhitā hontu ñātayo.

彼らが憐れみあるならば、このように祖先に施す。清浄で優れた、時にかなった適切なる飲食を。これが実に祖先のためでありますように、祖先が幸せでありますように。

死者たちの物語―『餓鬼事経』和訳と解説
餓鬼事経

親しい人を失ったとき・・・ もう逢えないのだという悲しみ・・・

親しい人を失ったとき。
もう逢えないのだという悲しみ。

それは、もう何ももらうことが出来ないという悲しみ。
声も、笑顔も、温かい手の感触ももう得られない。
もう何もしてあげることが出来ないという悲しみ。
話しかけたり、手を差しのべたり、助けてあげたりもう出来ない。

でももし、もう既に赴いた所で困っているならば、助けてあげることは出来るんです。

死んだら、身体は分解されて土や水や気体に戻ります。
そしてまた別の物へ、川や雲や草木と変化していきます。
決して無にならないのです、

心も同じです、今でもこの瞬間瞬間変化しています。
身体があるので同じような感覚が続いているだけです。

だから、この身体が無くなれば、次の新しい身体で次の新しい心に変化するだけです。
原因があれば必ず結果があります

生きていた時、想い、語り、してあげる事は現象です。
それは原因となって周りの人、そして自分自身に影響を与え続けます。

それはこの身体が死んで他の物に変化しても消えることはありません。
結果として新しい生命が生まれてしまうのです。

今、あなたが善い心で何か行えば、それが原因となって、必ず善い結果となって現れます。
そのあなたに現れるであろう善い結果を、幸福を必要としている人に届ける事ができるのです。

それは、「この善い行いの結果である幸福を、ここに居なくなってしまったあの人に届けます」と心で宣言することなのです。

もし助けて欲しいと願っている命があなたを見つめているならば、あなたのその願いを心で感じて喜びが生まれます。
その喜びが助けになるのです、その喜びによって幸福になるのです。

暑さ、寒さ、渇き、飢え、そういった苦しみに逢ってるのなら、その苦しみが和らぐのです、消えてしまうのです。

だから、常に善い心を持ち続けるようにしなければ自分も不幸になります、苦しんでいる命も助けられないのです。

善い心とは、怒りの無い、欲の無い、慙愧をわきまえた、片寄らない、落ち着いた、軽やかで、柔軟な心のことを言います。

苦しんでいる命には助けとならない、自分を苦しめるだけの心は不善の心です。
悲しみの心は残念ながら欲と怒りなのです、
後悔の心は怒りの心だと知ってください。
 
だから、嘆き、悲しみ、憂い、後悔が込み上げてきたら、その思いのはじまりである「思い出」で止めて下さい。

その「思い出」がわきおこった時に「どこに行ったか分かりませんが、今いる所で幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように」と願ってください。

そして、この願いが事実として届けれるように「善い心と、言葉と、行いに私は努めています、この善い行いの結果が届きますように」と心に言い聞かせてください。

これはお釈迦様が生きておられた2500年まえから語り続けられている、異議を唱えることの出来ない、すべての命を慈しむことの出来る、正しい誓願です。
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