仏性って、意識って、わかんないから関係無い、ではもったいないッス

「仏性とは意識のことですね」と坐禅中に思ってしまったので備忘録に。

「道元禅師の言われた『人人皆備われり』、『未だ修せずんば現れず』とは、意識は誰でも備わっていますよね、それどころか自分そのものです、だから主、あるいは主人公といわれてます、それで意識で脳を制御しなさいと、本能つまり煩悩を支配しなさいということです」


「脳は遺伝子で初期設定されて環境でアップデートするような物質的なものです、タンパク質で構成されて電気パルスと化学物質の変化で動いています」


「対して、意識はどこから発生するのか、何をエネルギーにしているのか等、科学的なことは何も解明されていませんが、私にも他人にも環境にも過去にも未来にもそして現在にもすべてに影響を与えるづけていることだけは反論の余地のない事実です」


「しかし、普段は無意識に行動しており、意識は説明や自我の確保のために使用している、というのが大部分を占めています」


「実際、自分がルーチンワークなどで自動運転している様を観察すると、環境で備わった手続き記憶や生まれつき備わっている本能的な行動で意識の関与無しに行動出来ている事がわかります」


「また、意識が真に必要とされ真価を発揮するのは、新たな判断や過去の習慣や反応に反する必要のある時だと実感することもよくあります」


「初めて火を使い出した人類は『ファラデーのロウソクの科学』は読んでなかったはずですが火を使って生活を変えました。また、火を使う事で脳を進化させたのも事実です」


「同じように、科学的に何一つ解らない意識が、脳から発生する創発現象でも、内なる霊的な存在でも、神や偉大な何者かに与えられたあるいはその一部でもなんでもいいです、ただ、既に備わっている意識を上手に使うことです」


「限定されることの出来ない意識は、無限の広がりと可能性を持っていると言っても言い過ぎではないでしょう」


「時に、悩み苦しむ時に何か心の奥底で腹立たしく思うのは、意識を持っていても使いこなせていない、過去の習慣に無条件に疑いなく従い、憂い悲しみのループの中で意識を浪費しているのが感じられるからではないでしょうか?」


「意識で脳が変わります、身体も変わります、環境も変わります、現在はもちろん未来も変わります、すべて因果関係から免れるものはありません、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意です」


「意識は無限ですが、しかし、この身体の時間は有限です、光陰虚しく過ごすことなかれです」


「余談ですが『主人公!』『ハイ!』『主人公!』『ハイ!」と自問自答し続けた禅僧の話も有名です」


「話は飛びますが、意識が私とすれば有るとか無いとか言えなくなります、死ぬとか生まれるとかも限定できなくなります、不安、恐れが生まれる必要もないでしょうし執着出来ない現象であるとも思えてきます」


で、結局のところ話をまとめるとこうなるだけです(笑)


意識が仏性だと言われたら、スゲ~オレ持ってんじゃん!あとテクニックと根性だけってマジかよ〜ちょっと修行してくる!ってなるよね。


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「自我」を宗教から離れて見てみると


「私という確固たるものは存在しない」という仏教の「無我」の教えがあります。

この無我の説明に使われる仏教の古い話に「車の喩え」がありまして「バラバラに分解した車のどれが車なのか?」というものです。

このような例えでミリンダ王が納得したのかどうかわかりませんが、現代では「私というものは様々な現象による感覚を統合した質感である」とみるのが一般的なような気がします。

科学的には「脳の中の幽霊」でよく知られるラマチャンドラン先生は自己の性質を5つに分けています。

1.連続的な感覚
2.統合的な感覚
3.主体的な感覚
4.所有感
5.内省的思考からくる感覚

もうなにも説明が要らないぐらいシンプルで明快な分別です。
この分類を頭の引出しに入れて坐禅をすると、あれ不思議、お経の中に繰り返し出てくる所謂大乗経典で云う処の「五蘊皆空」の元ネタみたいなお釈迦様の言葉がふと解るような気がしてくるので面白いです。

「片手の音と」いう知覚の症状を扱った章もありカルトやスピ系の嫌いな理工系の人には一読の価値のある著者だと思います。

意識と自由意志の備忘録


たいそうなタイトルですが備忘録ですので悪しからず

意識
意識は大きくは次のような三つに分けられるようです。
1.意味や物語のように言葉で表現できる意識の流れ
2.言葉にはならない広大な潜在意識のながれ
3.前後に繋がりをもたない情動的な前意識のながれ

それぞれが影響しあい心を作り上げているようです。
言葉で表現できる意識が「私」ということもあります、言葉で表現できない不思議な潜在意識こそ「私」ということもあります、また、意識する前に既に活動している「私」が本来だということもあります。
どれもこれも心ですから分けるのは理解の手段に過ぎないということだと思います。

自由意志
仮に不自由をかなり大雑把な二つに分けてみます
・なにがなんだかどうなってるのかわからない
・思うようにならない、どうすることもできない

逆に自由意志とは次のようになりそうです
・「現状がわかる」という「身体や心の状態に意識を向け続ける」こと
・「操作できる」という「身体や心を望ましい向かうように意識し続ける」こと
これを仏教的に表現すると「観る」と「精進」でしょうが、禅的にあらわすと「把住」でしょう、ひっ捕まえて叩上げるという容赦ないしばきあげです。
自分しばきこそが自由な自由意志だなんて・・・(笑)

以上のことから「怒らない」について見てみると
「怒らない」
怒りに対して怒りのままになるのではなく怒りを理解する、ということで一般には次のようにいわれています。
・怒りを打ち消さない
・怒りを受け止める
・怒りの意味や理由を考える
・怒りの対象に対して怒りでない好ましい出来事を思い出す

自由意志の「観る」「精進」から見ると
・怒っていることを知る
・怒りから離れるように意識を向ける。 
ということになりそうです。
まさに「怒らないこと!」ですね

怒りにたいしての意識のしかたとして仏教では次のようにつたえられています。 
・怒りのある心を怒りのある心だと知る。
・怒りがどのように生まれるか知る
・怒りがどのように消えるか知る
・怒りが起きないようにするにはどのようにしたらいいか知る

そしてこれは念処経に書かれてる、心を清め苦しみをなくす唯一の方法のなかの一つなのです。

ふと気持ちが暗くなった時に



日常幾度も何気なく、ふと将来などが不安になって憂鬱になったり、過去を思い出して心がざわついたりします。

それが何か行動を起こすことで解決できるものであれば良いのですが、特にどうしようもない考えても仕方のないことだと解っている場合、たいていは考えをそらすようにしてしまいます。

とりあえず目の前にある映像や音楽・飲み物、あるいは本やメール、SNS等に手を伸ばして考えを変える、気持ちを切り替える、というようなことをしています。

自然と身についている心を悩まさないための自己防衛みたいな行為ですが、習慣的に繰り返すのでこれが癖になってしまい、それら感覚刺激に依存してしまうこともありそうで別の悩みが生まれそうです。

こういう時に「・・・しあわせでありますように・・・」とゆっくりつぶやき、子供たちや動物たちを思い出してみます。
そうすると、自然に顔から力が抜けて心も穏やかになるような感じがします。

何かで読んだ話では、無理矢理にでも口の端を引っ張り目じりを下げると偽笑顔であっても気持ちが変化するそうです、このようなことは「固有反射心理学」で色々実験されて効果があるといわれてます。

でも、箸をくわえて笑顔を作るよりは自分や他者の幸せを念じて、菩薩や観音さまのお顔はこういう気持ちのお顔なのかな?と思ってみてもよいと思います。

禅宗では菩薩や観音さまは私たち自身のことなので、苦しい時にお願いする対象ではなく、真似をする理想像としたほうが現実的であるような気がします。

慈悲という四無量心の修習は究極の仏道修行と言っても言い過ぎじゃないものですから、心の健康の薬になることは間違いありません。

依存症になることも副作用もない、しかも心が無限に成長する方法でもあります。

「心身一如」にグダグダと妄想で暇をつぶすと。

「心身一如」ってなんか仏教らしくないよね。などと考えてると、禅はいわゆる仏教と似てるのか?などと思ってしまうのです。


人は体の内外から同時に入力される無数の感覚に、生命として備えられた無数の反応系で並行かつ分散処理していく。

人の活動には神経伝達物質の増減や各部位の収縮・弛緩といった無自覚で、しかし生命として最も基本で意識の関与を待つまでもない感覚への反応が大部分を占めている。

もっと大きな粗い運動、手を引っ込める、抜重して損傷を避ける、好意や敵意を表す、などの他からは自覚的に見える行動も無自覚に行われる。

実際、それら自分の行動で自分の意識に上る事柄はほとんど無く、あらかじめ備えられたかあるいは学習によって獲得した反応系で生命として自動的に対処して生きている。

例えば、意識に上るのは未だ起こっていない事を予測して注意を向け続ける必要がある場合や、自他を観察または省察し関係を調整していく必要がある場合などといった、活発な自身の働きそのものとは離れた世界であるかもしれない。(それは仕事の現場と本社の会議室ぐらいの差のような)

悩みや苦しみといった意識にあがる心の最たるものも、内外の感覚に対して各臓器や神経らの反応系が幾重にも関わり脳内処理の多層化とループを経てやっと意識に上がるのだろうか、また自覚的な意識に上がる以前から身も心も一体になって何度も無意識な対処を繰り返しているのだろう。

禅でいうところの活発発地や、本来の面目は、一般に仏教学でいう体と心の名色の区別を超えて、存在そのものが自己であるという一切合切ひっくるめた働きをいうように感じる。例えばアドレナリンの放出で変化する体も行動も意識も、あるいはそれ以上に感覚に対するアドレナリンの分泌課程さえも己という分けることのできない現象である、という見方とも思う。

禅のような己という不可分な存在とは異なり、仏教でいう身と心とはそれぞれ別のもので、共に原因や結果を影響しあう相互依存の関係ともとれる。

自分の意識されない分散同時並行処理の活発で不可分な身と心の動きが生の大半を占め、自我の意識がごく一部の些細な現象であることに気づかそうとする禅とは違い、仏教の場合、心は路心という線形の流れで刹那に消滅するドミノ的に変化し続くもので、それらが身や感覚とは異なる出来事であり自我などどこにもないことを気づかそうとするようにも思える。


妄想メモとして備忘録







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