『慈の修習』 のメモです。

なんかカッコイイ陀羅尼などを探してたんですが(笑)
目についた『慈経』という文字に惹かれて聞いてみると、慈の修習でした。
曲がなかなか気に入ったので、パーリ語文と意訳をメモしておきます。

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The Chant of Metta 慈經 (黃慧音 巴利文) 有字幕

Metta
慈しみ

Ahāṃ avero homi,abyāpajjo homi, anīgho homi,sukhī attānaṃ pariharāmi.
私は怨みのない、憎しみのない、怒りのない者でありますように、安楽でありますように。

mama mātāpitu,ācariyā ca ñātimitta ca sabrahma-cārino ca,
averā hontu,abyāpajjā hontu,anīghā hontu,sukhī attānaṃ pariharantu.
父母、尊師、親友、仲間たちが、怨みのない、憎しみのない、怒りのない者でありますように、安楽でありますように。

imasmiṃ ārāme sabbeyogino,averā hontu,abyāpajjā hontu,anīghā hontu,sukhī attānaṃ pariharantu.
寺に住む、全ての修行者が、怨みのない、憎しみのない、怒りのない者でありますように、安楽でありますように。

imasmiṃ ārāme sabbebhikkhu sāmanerā ca upāsaka-upāsikāyo ca,averā hontu,abyāpajjā hontu,anīghā hontu,sukhī attānaṃ pariharantu.
寺に住む、全ての比丘も、沙弥も、優婆塞も、優婆夷も、怨みのない、憎しみのない、怒りのない者でありますように、安楽でありますように。

amhākaṃ cātupaccaya dāyakā,averā hontu,abyāpajjā hontu、anīghā hontu,sukhī,attānaṃ pariharantu.
我らの四資具の施主が、怨みのない、憎しみのない、怒りのない者でありますように、安楽でありますように。

amhākaṃ ārakkha devatā,imasmiṃ vihāra,imasamiṃ āvāse,imasmiṃ ārame,ārakkha devatā,averā hontu,abyāpajjā hontu,anīghā hontu,sukhī attānaṃ pariharantu.
我らを守護する神々、精舎に住む、住居に住む、寺に住む、守護神が、怨みのない、憎しみのない、怒りのない者でありますように、安楽でありますように。

sabbe sattā,sabbe pānā,sabbe bhūtā,sabbe puggalā,sabbe atta-bhāva-pariyapannā,sabbā itthiyo,sabbe purisā,sabbe ariyā,sabbe anariyā,sabbe devā,sabbe manussā,sabbe vinipātikā,averā hontu,abyāpajjā hontu,anīghā hontu,sukhī attānaṃ pariharantu.
全ての生けるもの、全ての生類、全ての存在、全ての人、全ての心の存在も身体の存在も、全ての女性も、全ての男性も、全ての聖者も、全ての俗人も、全ての神も、全ての人々も全ての苦しむ者たちも、怨みのない、憎しみのない、怒りのない者でありますように、安楽でありますように。

dukkhā muccantu,yathā-laddha-sampattito,mā vigacchantu kammassakā
苦しみを脱し、成就を得、自己の業が消え去りますように。

puratthimāya disāya,pacchimāya disāya,uttarāya disāya,dakkhiṇaya disāya,
puratthimāya anudisāya,pacchimāya anudisāya,uttarāya anudisāya,dakkhiṇaya anudisāya,heṭṭhimāya disāya,uparimaya disāya.
sabbe sattā,sabbe pānā,sabbe bhūtā,sabbe puggalā,sabbe atta-bhāva-pariyapannā,sabbā itthiyo,sabbe purisā,sabbe ariyā,sabbe anariyā,sabbe devā,sabbe manussā,sabbe vinipātikā,averā hontu,abyāpajjā hontu,anīghā hontu,sukhī attānaṃ pariharantu.
東方、西方、北方、南方、東北方、西南方、北西方、南東方、上方、下方の、全ての生けるもの、全ての生類、全ての存在、全ての人、全ての心の存在も身体の存在も、全ての女性も、全ての男性も、全ての聖者も、全ての俗人も、全ての神も、全ての人々も全ての苦しむ者たちも、怨みのない、憎しみのない、怒りのない者でありますように、安楽でありますように。

dukkhā muccantu,yathā-laddha-sampattito,mā vigacchantu kammassakā
苦しみを脱し、成就を得、自己の業が消え去りますように。

uddhaṃ yāva bhavaggā ca adho yāva avīcito,samantā cakkavāḷesu,ye sattā paṭhavi-carā ,abyāpajjā niverā ca nidukkhā ca nupaddavā.
上方の存在、また、下方の無間、三界の一切、また、地を歩く生けるものが、怨み無く、憎しみ無く、苦しみも無く、災いも無いように。

uddhaṃ yāva bhavaggā ca adho yāva avīcito,samantā cakkavāḷesu,ye sattā paṭhavi-carā ,abyāpajjā niverā ca nidukkhā ca nupaddavā.
上方の存在、また、下方の無間、三界の一切、また、地を歩く生けるものが、怨み無く、憎しみ無く、苦しみも無く、災いも無いように。


uddhaṃ yāva bhavaggā ca adho yāva avīcito,samantā cakkavāḷesu,ye sattā paṭhavi-carā ,abyāpajjā niverā ca nidukkhā ca nupaddavā.
上方の存在、また、下方の無間、三界の一切、また、地を歩く生けるものが、怨み無く、憎しみ無く、苦しみも無く、災いも無いように。











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あの世はない、善悪の行為に報いはない、全て運命。という大昔の人生論がお経にありまして・・

お釈迦様の在世の時代も、色々な見解を持った指導者が居られたようで「六師外道」とも呼ばれていますが、その中で三通りの人生論を挙げたお経がありますので紹介しておきますね。

1つ目は、『あの世なんかない、死んだら終わりさ。論』
2つ目は、『善悪の報いはないから何をしても平気さ。論』
3つ目は、『運命で決まっているので頑張っても無駄だよ。論』

『あの世なんかない、死んだら終わりさ。論』アジタ・ケーサカンバラ
『布施もなく、献供もなく、供養もない、善悪行の業の結果はない、この世もあの世もない、母も父もいない、化生の生けるものたちはいない、この世とあの世を自らよく知り、目のあたりに見て説く、正しく進み実践している沙門・バラモンはこの世にない。
 人は四大要素にて成る。死ねば地・水・火・風に還元し、諸根は虚空に転入する。四人の者が一つの担架で屍体を運び、火葬場に至れば嘆きの辞を叙すけれども、屍体は焼かれて彼の骨は鳩色となり、供物は炭となる。布施の説はただ愚者の語る所。
 もし誰かが死後の存在を説けば、それはただ無根の妄語である。愚者も賢者も身が終わって断滅し、壊失すれば、死後は何物もあることはない』

『善悪の報いはないから何をしても平気さ。論』プラーナ・カッサバ
『為しても、為させても、斬るも、斬らしむるも、苦しめても、苦しめさせても、悲しみを与えても、悲しみを与えさせても、怯えさせるのも、怯えさせしむるのも、生き物を殺しても、与えられてないものを取っても、侵入しても、略奪しても、窃盗しても、追剥しても、人の妻を寝取っても、嘘をついても、それらを行ってもなんら罪悪は作くられない。
 もし、武器のような刃物でこの地上の生き物を肉の塊に変えても、罪悪が現れることはない。
 もし、ガンジス川の南で人々を殺戮し殺戮させしめ、斬り斬らしめても、苦しめ苦しましめようとも、罪悪が生じることはない。
 もし、ガンジス川の北で布施をし、供養を行い行わさせても、功徳は生まれない、功徳の果報もない。
 布施によっても、調御によっても、自制によっても、真実を語っても、功徳の生まれることはなく、功徳の果報もない。』

『運命で決まっているので頑張っても無駄だよ。論』マッカリ・ゴーサーラ
『生けるものには汚れの因はなく縁はない。生けるものは因がなく縁がなく汚れる。
生けるものには清浄の因はなく縁はない。生けるものは因がなく縁がなく清まる。
自分で行うこともその力もない、精進はなく、気力もない、努力はない、全ての生けるものは自分で自在の力なく、無力、無精進である。ただ運命によって、出会いによって、自然の力によって変化し、楽と苦を受けるだけである。
無数の生存の仕方があり、無量の輪廻が有る、あたかも投げられた糸玉が転び糸がほぐれていくように愚者も賢者も等しく輪廻流転して滅尽に到る』

 
お釈迦様はこれらの見解について次のように言われました。
 このような見解を持つ者は、身の善行、語の善行、意の善行を避け、身の悪行、語の悪行、意の悪行を受け取り、行うに違いありません。
 それは何故か、このような見解を持つものは、もろもろの不善法の危難・劣悪・汚れを、もろもろの善法の、欲のない事の功徳・浄化の側面を見ないからです。
 また、これらの誤った見解を持てば「邪見」となります。これらを考えるならば「邪思惟」となります。これらを説けば「邪語」となります。これらの非正法を説くことで自己を讃め、他人を貶します。このようにして悪しき不善法が、このような邪見を縁としてかれに生じます。

また、賢明な人達はこのように考えます。
「死んだら終わり」でも、「報いは無い」でも、「運命には逆らえない」でも、本当かどうか私らにははっきり分からないが、解っていることはそんな生き方をしたら皆から非難されて不幸になるだけだろうし、仮に「あの世」や「報い」や「原因」というものがあるならば、死後つぎの世では悲惨なことになる、どうしたって、善くないことになる。

アビダンマ Ⅱ摂心所分別

三蔵(経・律・論)の中の論を要約したアビダンマッタサンガハというものがあります、パーリー語から和訳されたものがいくつか出ており、詳しい解説も手にすることが出来るので読みやすく理解しやすいと思います。

パーリー語と併記したものはこちらになります。丸暗記したい方はどうぞ!
Ⅱ.CETASIKA-SAṄGAHA-VIBHAGĀ   摂心所分別

アビダンマ Ⅰ摂心分別

三蔵(経・律・論)の中の論を要約したアビダンマッタサンガハというものがあります、パーリー語から和訳されたものがいくつか出ており、詳しい解説も手にすることが出来るので読みやすく理解しやすいと思います。

パーリー語と併記したものはこちらになります。丸暗記したい方はどうぞ!
Ⅰ.CITTA-SAṄGAHA-VIBHĀGA  摂心分別

まだ、仏教という宗教も無かった、はるか二千年以上前、仏陀の言葉を詩の形で語り継ぎ、口伝えで残したお経がありました。このスッタニパータは最も古い経典であり、真の仏陀の言葉と伝えられています。



[慈経より抜粋]

いかなる生命であろうともことごとく、動き回っているものでも、動き回らないものでも、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも微細なものでも、巨大なものでも、

見たことが有るものも無いものも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、既に生まれているものでも、これから生まれようとしているものも、
生きとし生けるものが幸せでありますように。

どんな場合でも、ひとを欺いたり、軽んじたりしてはいけません。
怒鳴ったり、腹を立てたり、お互いにひとの苦しみを望んではいけません。

あたかも母がたった一人の我が子を命がけで守るように、そのようにすべての生命に対しても、無量の[慈しみの]心を育ててください。

慈しみの心を一切世間(すべての生命)に対して、限りなく育ててください。
上に、下に、横に(周り)に[棲むいかなる生命に対して]も、わだかまりのない、恨みのない、敵意のない心を育ててください。
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