怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書) を読んでつらつらと

正しい仏陀の教えをとてもわかり易く、しかも実生活にすぐ役立つように説明された”怒らないこと”という本があります。この本には、私達が家庭や学校や職場で教えられたり、勧められたり、あるいは強いられたりする、個人や社会の成長・進歩・発展に必要と言われている、プライドや競争心などの様々な感情の元となる”怒り”が書かれています。

”怒り”を含む”心の汚れ”については数々の経典に、先ず第一に取り除くべきことと言われていますので中部経典からいくつか紹介したいと思います。
各経典の内容は読んでいただくとして、ここではサッと”心のリスト”だけ挙げておきます。



怒らないことより 
パーリ語の、怒りについてのいくつかの言葉です。

1.Dosa 暗い感情
2.Vera 怒り
3.Upanāhī 怨み
4.Makkhī 軽視する
5.Paḷāsī 張り合う
6.Issukī 嫉妬する
7.Maccharī 物惜しみ
8.Dubbaca 反抗的
9.Kukkucca 後悔
10.Byāpāda  激怒




法相続経より
サーヴァッティに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院で、世尊が比丘たちに説いた「比丘たちよ、私の法の相続者になりなさい。財の相続者になってはいけません」という教えを、サーリプッタ尊者が比丘たちに詳細に説き聞かせるというお経です。
「どのような弟子が仏陀の弟子として非難されないのであろうか?」というテーマで、中道(八正道)の役割を諸々の心の汚れから説明しています。

1.貪りは悪しきものであり怒りは悪しきものです、貪りを捨て、怒りを捨てるために中道があります。
2.忿怒は悪しきものであり恨みは悪しきものです、忿怒を捨て、恨みを捨てるために中道があります。
3.被覆は悪しきものであり悩害は悪しきものです、被覆を捨て、悩害を捨てるために中道があります。
4.嫉妬は悪しきものであり吝嗇は悪しきものです、嫉妬を捨て、吝嗇を捨てるために中道があります。
5.諂いは悪しきものであり誑しは悪しきものです、諂いを捨て、誑しを捨てるために中道があります。
6.強情は悪しきものであり傲慢は悪しきものです、強情を捨て、傲慢を捨てるために中道があります。
7.慢心は悪しきものであり過慢は悪しきものです、慢心を捨て、過慢を捨てるために中道があります。
8.陶酔は悪しきものであり放逸は悪しきものです、陶酔を捨て、放逸を捨てるために中道があります。

汚れリストにすると次のようになります

1.Lobha 貪り
2.Dosa 怒り
3.Kodha 忿怒
4.Upanāha 恨み
5.Makkha 被覆
6.Paḷāsa 悩害
7.Issā 嫉妬
8.Macchera 吝嗇
9.Māyā 諂い
10.Sātheyya 誑し
11.Thambha 強情
12.Sbhaarm 傲慢
13.Māna 慢心
14.Atimāna 過慢
15.Mada 陶酔
16.Pamāda 放逸





布経より 
サーヴァッティに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院で、世尊が比丘たちに「汚れた垢の付いた布を染めるように、心が汚れていては悪い道が予期される。清潔な布を染めるように心が汚れていなければ善の道が予期される」。と説かれた時の”心の汚れ”リストです。法相続経と同じリストになっています。

1.Lobha 貪欲
2.Dosa 瞋恚
3.Kodha 忿怒
4.Upanāha 恨み
5.Makkha 被覆
6.Paḷāsa 悩害
7.Issā 嫉妬
8.Macchera 吝嗇
9.Māyā 諂い
10.Sātheyya 誑し
11.Thambha 強情
12.Sarmbha 傲慢
13.Māna 慢心
14.Atimāna 過慢
15.Mada 陶酔
16.Pamāda 放逸

削減経より 
サーヴァッティに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院で、諸々の見解は捨てられましょうか?」と問うマハーチュンダに、世尊は諸々の見解を棄てるには、煩悩を削減すべきことを説かれました。その中で身に関する3項目、言葉に関する4項目、八支、五蓋に続けて挙げられた煩悩です。

1.Kodhanā 忿怒ある
2.Upanāhī 恨みある
3.Makkhī 覆い隠す者
4.Paḷāsī 悪意ある
5.Issukī 嫉妬ある
6.Maccharī 物惜しみする
7.Saṭhā 見栄を張る
8.Māyāv  善人ぶる者
9.Thaddhā 強情の
10.atimānī  過慢ある
11.Dubbacā 素直でない 
12.Pāpamittā 悪友を持つ者
13.Pamattā 放逸な
14.Assaddhā 確信を持っていない者
15.ahirikā  恥の無い者
16.Anottāpī  恐れの無い者
17.Appassutā  小聞の者
18.Kusītā 怠惰の
19.muṭṭhassatī 気づきを忘れた者
20.Duppaññā 少慧の者
21.sandiṭṭhiparāmāsī ādhānaggāhī duppaṭinissaggī 自己の主観に取り付かれた者
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漢訳念処経を適当に和訳してみました。

参考はテキストデーターベースより  大正新修大蔵経

 中阿含因品 念処経   (瞿曇僧伽提婆訳)

我れ是の如く聞けり。ある時仏は拘樓国に遊行し劍磨瑟曇に在された。その時世尊は諸々の比丘衆に告げられた。正法を得て、憂い畏れを渡り、苦悩を滅し、啼哭を断ち、衆生を浄める一道有り、四念処という。若く有れば、過去の諸如来の著する所無き正覚に等し。

悉く心穢れ慧弱き五蓋を断ち、四念処に立心正住し、七覚支を修し、無上正尽の覚りを覚り得る。若く有れば未来の諸如来の著する所無き正覚に等し。悉く心穢れ慧弱き五蓋を断ち、四念処に立心正住し、七覚支を修し、無上正尽の覚りを覚り得る。我れ今現在、著する所な無き等正覺如來である。我れも亦た心穢れ慧弱き五蓋を断ち、四念処に立心正住し、七覚支を修し、無上正尽の覚りを覚り得たのである。

四とは何か、身の如くに身を観る念処、是の如く感覚・心・法の如くに法を観る念所。
身の如くに身を観る念処とは何か、比丘よ行くを則ち行くと知り、住まるを則ち住まると知り、坐るを則ち坐ると知り、臥せるを則ち臥せると知る。眠るを則ち眠ると知り、寤めるを則ち寤めると知り、眠寐を則ち眠寐と知る。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次のように比丘は、身の如くに身を観る。比丘は正知し出るも入るのも分別をもて善く観る、屈るも伸ばすも低くも高くも学堂での威儀も、僧伽梨及び諸衣鉢を善く著するのも、行くのも住まるのも坐るのも臥せるのも眠るのも寤めるのも語るのも黙るのも、皆正知する。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。比丘は悪い不善の念が生じたら、善法の念を以って断滅止して治める。例えば、木工師か木工師の弟子が彼の墨縄を用いて木を集め、則ちするどい斧で切って直すようなものである。是の如く比丘は悪い不善の念が生じたら、善法の念を以って断滅止して治める。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。歯と歯を相著けて舌は上顎に近づける。心を以て心を治め断滅止を治める。二力士が弱き人を捉え所々に捉え廻し自在に打ち鍛えるごとし。是の如く比丘は歯と歯を相著けて舌は上顎に近づける。心を以て心を治め断滅止を治める。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。比丘は入息を念じ則ち入息を念じたと知る。比丘は出息を念じ則ち出息を念じたと知る。入息が長ければ則ち入息が長いと知る。出息が長ければ則ち出息が長いと知る。入息が短かければ則ち入息が短かいと知る。出息が短かければ則ち出息が短かいと知る。一切身が息が入ると学び、一切身が息が出ると学ぶ。身行を止めて息が入ると学び、口行を止めて息が出ると学ぶ。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。比丘は離により潤おいに身を浸したような普遍充満した喜楽が生じれば、この身に離により普く隔たりなく充満した喜楽が生じたと。例えば、工浴人が器に豆を盛り洗うのに、潤いに浸した塊と水が一体になり、普く隔たりなく充満しているようなものである。是の如く比丘は離により潤おいに身を浸したような普遍充満した喜楽が生じれば、この身に離により普く隔たりなく充満した喜楽が生じたと。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。比丘は定により潤おいに身を浸したような普遍充満した喜楽が生じれば、この身に定により普く隔たりなく充満した喜楽が生じたと。例えば、山泉の清浄不濁な水が入り込む縁無く充満し四方に溢れ流れているとき、すなわちかの泉は自ずから底より湧きい出て、溢れ流れ潤いが山を浸し普遍充満しているようなものである。是の如く比丘は定により潤おいに身を浸したような普遍充満した喜楽が生じれば、この身に定により普く隔たりなく充満した喜楽が生じたと。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。比丘は喜の無い、潤おいに身を浸したような普遍充満した楽が生じれば、この身に喜の無い、普く隔たりなく充満した楽が生じたと。例えば青蓮華、紅、赤、白蓮が深い水底より生えて、根も茎も華も葉も悉く浸し潤っていれば、水は際なく普遍充満しているようなものである、是の如く比丘は喜の無い、潤おいに身を浸したような普遍充満した楽が生じれば、この身に喜の無い、普く隔たりなく充満した楽が生じたと。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。比丘はこの身に清淨心を以ってあますところなく解脱し成就に遊ぶ時、この身にあますところなく清淨心があると。僧伽梨あるいは衣をまとい頭より足までその身体を覆わないところはないとのごとく。是の如く比丘はこの身においてあますところなく清淨心があると。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。比丘は光明を念じ、所念を善く憶し、想を善く受け、善く持す。前後もまた然り、後前もまた然り、昼夜もまた然り、夜昼もまた然り、下上もまた然り、上下もまた然り。是くのごとく光明心を纒修せずして不顛倒の心有ること無し、心は終いに闇に覆われる所にあらず。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。比丘は所念を善く憶し、善く相を觀て受く、例えば人あって坐して臥人を觀、臥して坐人を觀るが如し。如是くの如く比丘は所念を善く憶し、善く相を觀て受く。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。比丘は此の身の住に従い、その好惡に従い、頭より足にいたるまで種々の不淨が充滿していることを觀見する。我が此の身の中には髮・髦・爪・齒・麁細な薄い膚皮・肉・筋・骨が有る。心・腎・肝・肺・大腸・小腸。脾・胃糞の固まり・大脳及び脳髄。涙・汗・涕・唾・膿・血・脂肪・髓・涎・肝・小便・例えば器に若干の種子を盛り。目の有る者が悉く明らかに見分るようなものである。いわば稲や粟や種の蕪や芥子のように。是くの如く比丘は比丘は此の身の住に従い、その好惡に従い、頭より足にいたるまで種々の不淨が充滿していることを觀見する。我が此の身の中には髮・髦・爪・齒・麁細な薄い膚皮・肉・筋・骨が有る。心・腎・肝・肺・大腸・小腸。脾・胃糞の固まり・大脳及び脳髄。涙・汗・涕・唾・膿・血・脂肪・髓・涎・肝・小便。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。我が此の身の中には地界・水界・火界・風界空界・識界が有る。例えば屠殺者が牛を殺し、皮を剥ぎ、地面に広げ、上手に分け六段を作すようなものである。是くの如く、比丘は身に諸界を観る。我が此の身の中には地界水界・火界・風界・空界・識界があると。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。比丘は或いは一、二日から六、七日経た彼の死した屍を観るのである。烏や鳶が啄んだ所や、山犬や狼が食した所を。火に焼かれたり地に埋められたり悉く腐乱し壊したところを。已に見たところを自と比べるのである。今の我が此の身もまた是の如く倶に有る、此の法より終いに離れることを得ず、と。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。比丘は呼吸を正しく見る如く。骸骨が青色になり 腐乱し、半ば食べられ、骨が鎖がり地に在るのを。已に見たところを自と比べるのである。今の我が此の身もまた是の如く倶に有る、此の法より終いに離れることを得ず、と。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。比丘は呼吸を正しく見る如く。皮や肉や血が離れ、ただ筋が相い連らなっているのを。已に見たところを自と比べるのである。今の我が此の身もまた是の如く倶に有る、此の法より終いに離れることを得ず、と。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。比丘は呼吸を正しく見る如く。骨の関節が離れ、あちらこちらに散在していることを。足骨、骨盤、大腿骨、尾骨。背骨肩甲骨、頸骨、頭蓋骨が各々異る所に在るのを。已に見たところを自と比べるのである。今の我が此の身もまた是の如く倶に有る、此の法より終いに離れることを得ず、と。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

復た次にように比丘は、身の如くに身を観る。比丘は呼吸を正しく見る如く。貝の如く骨が白く、青く、また鳩色に。赤く血塗られ、腐れ、壞し、粉砕したところを。已に見たところを自と比べるのである。今の我が此の身もまた是の如く倶に有る、此の法より終いに離れることを得ず、と。是の如く比丘は、内の身を身の如くに観、外の身を身の如くに観る。身に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は身の如く身を観るのである。

汝ら比丘、比丘尼よ。是の如く少なくとも身の如くに身を観る者は。是の身の如くに身を観る念処と謂うが、感覚の如く感覚を観る念処とは何であろうか。比丘者。楽の感覚を覚えた時、便ち楽の感覚を覚えたと知る。苦の感覚を覚えた時、便ち苦の感覚を覚えたと知る。不苦不楽の感覚を覚えた時、便ち不苦不楽の感覚を覚えたと知る。身の楽や身の苦や身の不苦不楽の感覚。心の楽、心の苦、心の不苦不樂。食の楽、食の苦、食の不苦不楽。無食の楽、無食の苦、無食の不苦不楽。欲のある楽、欲のある苦、欲のある不苦不楽。無欲の楽、無欲の苦、無欲の不苦不楽の感覚を覚えた時。便ち無欲の不苦不楽の感覚を覚えたと知る。是の如く比丘は、内の感覚を感覚の如くに観、外の感覚を感覚の如くに観る。感覚に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は感覚の如く感覚を観るのである。

汝ら比丘、比丘尼よ。是の如く少なくとも感覚の如くに感覚を観る者は。是の感覚の如くに感覚を観る念処と謂うが、心の如く心を観る念処とは何であろうか。比丘は欲の心が有ると知れば、欲の心が如実に有ると。欲の心が無いと知れば、欲の心が如実に無いと。怒りの有る、怒りの無い。癡の有る、癡の無い。有穢汚の有る、穢汚の無い。集中の有る、散乱の有る。下の有る、高の有る。小の有る、大の有る。修不修。定不定。解脱していない心で有れば、解脱していない心と如実に知ること。解脱した心で有れば、解脱した心であると如実に知ること。是の如く比丘は、内の心を心の如くに観、外の心を心の如くに観る。心に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は心の如く心を観るのである。

汝ら比丘、比丘尼よ。是の如く少なくとも心の如くに心を観る者は。是の心の如くに心を観る念処と謂うが、法の如く法を観る念処とは何であろうか。眼が色を縁として内に結を生じれば、比丘は、内に実に結が有るを、内に結が有ると如実に知る。内に実に結が無ければ、内に結が無いと如実に知る。若し未だ内に生じていない結が、新たに生じれば、如実に知る。若し已に内に生じた結が滅し、復た生じなければ、如実に知る。是の如く耳鼻舌身意を縁として法によって内に結が生じる、と。比丘は、内に実に結が有るを、内に結が有ると如実に知る。内に実に結が無ければ、内に結が無いと如実に知る。若し未だ内に生じていない結が、新たに生じれば、如実に知る。若し已に内に生じた結が滅し、復た生じなければ、如実に知る。是の如く比丘は、内の法を法の如くに観、外の法を法の如くに観る。法に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は法の如く法を観るのである。

復た次にように比丘は法の如くに法を観る。比丘は内に実に欲が有れば、欲が有ると如実に知る。内に実に欲が無ければ欲が無いと如実に知る。若し未だ生じていない欲が生じれば如実に知る。若し已でに生じた欲が滅し、復た生じなければ如実に知る。是の如く、是に瞋恚、睡眠、後悔、内に実に疑いが有れば、疑いが有ると如実に知る。内に実に疑いが無ければ疑いが無いと如実に知る。若し未だ生じていない疑いが生じれば如実に知る。若し已に生じた疑いが滅し、復た生じなければ如実に知る。是の如く比丘は、内の法を法の如くに観、外の法を法の如くに観る。法に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は法の如く法を観るのである。謂わく五蓋なり。

復た次にように比丘は法の如くに法を観る。比丘は内に実に念覚支があれば、念覚支が有ると如実に知る。内に実に念覚支が無ければ、念覚支が無いと如実に知る。若し未だ生じていない念覚支が生じれば如実に知る。若し已に生じた念覚支が、便ち住し忘れずしかも衰退しないならば。転修増広であると如実に知る。是の如く是の法・精進・喜・息・定なり。比丘よ。内に実に捨の覚支が有れば、捨の覚支が有ると如実に知る。内に実に捨の覚支が無ければ、捨の覚支が無いと如実に知る。若し未だ生じていない捨の覚支が生じれば如実に知る。若し已に生じた捨の覚支が、便ち住し忘れずしかも衰退しないならば、転修増広と如実に知る。是の如く比丘は、内の法を法の如くに観、外の法を法の如くに観る。法に在って念を確立し、知有り、見有り、明有り、達有り、是謂わく比丘は法の如く法を観るのである。謂わく七覚支である。
汝ら比丘、比丘尼よ。是の如く少なくとも法の如くに法を観る者は。是の法の如くに法を観る念処と謂う

汝ら比丘比丘尼よ。七年心を確立し正しく四念処に住する者は、彼は必ず二果を得る。或いは現法究竟智を得る。或いは有余阿那含を得る。七年を置き、六・五・四・三・二・一年。汝ら比丘比丘尼よ。七ヶ月心を確立し正しく四念処に住する者は、彼は必ず二果を得る。或いは現法究竟智を得る。或いは有余阿那含を得る。七ヶ月を置き、六・五・四・三・二・一月。汝ら比丘比丘尼よ、七日七夜、心を確立し、正しく四念処に住する者は、彼は必ず二果を得る。或いは現法究竟智を得る。或いは有余阿那含を得る。置七日七夜六・五・四・三・二。一日一夜を置き。汝ら比丘比丘尼よ。僅かしばらくでも心を確立し正しく四念処に住する者は。彼は朝に行じれば是の如く暮れには必ず昇進を得る。暮れに行じれば是の如く朝には必ず昇進を得る。佛説是の如し、諸々の比丘佛の所説を聞けり。
歓喜奉行念処経 第二竟 三千一百三十七字


中阿含因品 念處經   (瞿曇僧伽提婆譯)
我聞如是。一時佛遊拘樓痩在劍磨瑟曇拘樓都邑。爾時世尊告諸比丘。有一道淨衆生。度憂
畏滅苦惱斷啼哭得正法。謂四念處。若有過去諸如來無所著等正覺。

悉斷五蓋心穢慧羸。立心正住於四念處。修七覺支。得覺無上正盡之覺。若有未來諸如來無所著等正覺。悉斷五蓋心穢慧羸。立心正住於四念處。修七覺支。得覺無上正盡之覺。我今現在如來無所著等正覺。我亦斷五蓋心穢慧羸。立心正住於四念處。修七覺支。得覺無上正盡之覺。

云何爲四。觀身如身念處。如是觀覺心法如法念處。云何觀身如身念處。比丘者行則知行。住則知住。坐則知坐。臥則知臥。眠則知眠。寤則知寤。眠寐則知眠寤。如是比丘觀内身如身觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者正知出入善觀分別。屈伸低昂儀容庠序。善著僧伽梨及諸衣鉢。行住坐臥眠寤語默。皆正知之。如是比丘觀内身如身觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者生惡不善念。以善法念治斷滅止。猶木工師木工弟子彼持墨繩用拼於木。則以利斧斫治令直。如是比丘生惡不善念。以善法念治斷滅止。如是比丘觀内身如身觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者。齒齒相著舌逼上齶。以心治心治斷滅止。猶二力士捉一羸人。處處捉旋自在打鍛。如是比丘齒齒相著舌逼上齶。以心治心治斷滅止。如是比丘觀内身如身觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者念入息即知念入息。念出息。即知念出息。入息長即知入息長。出息長即知出息長。入息短即知入息短。出息短即知出息短。學一切身息入。覺一切身息出。學止身行息入。學止口行息出。如是比丘觀内身如身觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者離生喜樂。漬身潤澤普遍充滿。於此身中離生喜樂。無處不遍。猶工浴人器盛澡豆。水和成摶水漬潤澤。普遍充滿無處不周。如是比丘離生喜樂。漬身潤澤普遍充滿。於此身中離生喜樂無處不遍。如是比丘觀内身如身觀外身如身。立念在身有知有見有明見達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者定生喜樂。漬身潤澤普遍充滿。於此身中定生喜樂無處不遍。猶如山泉清淨不濁充滿流溢。四方水來。無縁得入。即彼泉底水自涌出。流溢於外漬山潤澤普遍充滿無處不周。如是比丘定生喜樂。漬身潤澤。普遍充滿。於此身中定生喜樂無處不遍。如是比丘觀内身如身觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘觀身如身。比丘者無喜生樂。漬身潤澤普遍充滿。於此身中無喜生樂無處不遍。猶青蓮華紅赤白蓮水生水長在於水底。彼根莖華葉悉漬潤澤。普遍充滿無處不周。如是比丘無喜生樂。漬身潤澤普遍充滿於此身中無喜生樂無處不遍。如是比丘觀内身如身。觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘觀身如身。比丘者於此身中以清淨心。意解遍滿成就遊。於此身中以清淨心無處不遍。猶有一人被七肘衣或八肘衣。從頭至足於其身體無處不覆。如是比丘於此身中。以清淨心無處不遍。如是比丘觀内身如身觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者念光明想善受善持善憶所念。如前後亦然。如後前亦然。如晝夜亦然。如夜晝亦然。如下上亦然。如上下亦然。如是不顛倒心無有纒修光明心心終不爲闇之所覆。如是比丘觀内身如身。觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者善受觀相善憶所念。猶如有人坐觀臥人臥觀坐人。如是比丘善受觀相善憶所念。如是比丘觀内身如身。觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者此身隨住隨其好惡。從頭至足觀見種種不淨充滿。我此身中有髮髦爪齒麁細薄膚皮肉筋骨。心腎肝肺大腸小腸。脾胃摶糞腦及腦根。涙汗涕唾膿血肪髓涎膽小便猶如器盛若干種子。有目之士悉見分明。謂稻粟種蔓菁芥子。如是比丘此身隨住隨其好惡。從頭至足觀見種種不淨充滿。我此身中有髮髦爪齒。麤細薄膚皮肉筋骨。心腎肝肺大腸小腸。脾胃摶糞腦及腦根。涙汗涕唾膿血肪髓涎膽小便如是比丘觀内身如身。觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者觀身諸界。我此身中有地界水界火界風界空界識界。猶如屠兒殺牛剥皮布地於上分作六段。如是比丘觀身諸界。我此身中地界水界火界風界空界識界。如是比丘觀内身如身。觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘觀身如身。比丘者觀彼死屍或一二日至六七日。烏鴟所啄豺狼所食。火燒埋地悉腐爛壞。見已自比。今我此身亦復如是倶有此法終不得離。如是比丘觀内身如身。觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘觀身如身。比丘者如本見息道。骸骨青色 爛腐食半骨璅在地。見已自比。今我此身亦復如是倶有此法終不得離。如是比丘觀内身如身。觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者。如本見息道。離皮肉血唯筋相連。見已自比。今我此身亦復如是倶有此法終不得離。如是比丘觀内身如身。觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者如本見息道。骨節解散散在諸方。足骨膞骨髀骨髖骨。脊骨肩骨頸骨髑髏骨。各在異處。見已自比。今我此身亦復如是倶有此法終不得離。如是比丘觀内身如身。觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者。如本見息道骨白如螺青猶鴿色。赤若血塗腐壞碎粖。見已自比。今我此身亦復如是倶有此法終不得離。如是比丘觀内身如身。觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

若比丘比丘尼。如是少少觀身如身者。是謂觀身如身念處云何觀覺如覺念處。比丘者。覺樂覺時便知覺樂覺。覺苦覺時便知覺苦覺。覺不苦不樂覺時。便知覺不苦不樂覺。覺樂身苦身不苦不樂身。樂心苦心不苦不樂心。樂食苦食不苦不樂食。樂無食苦無食不苦不樂無食。樂欲苦欲不苦不樂欲。樂無欲苦無欲覺不苦不樂無欲覺時。便知覺不苦不樂無欲覺。如是比丘觀内覺如覺。觀外覺如覺。立念在覺。有知有見有明有達。是謂比丘觀覺如覺。

若比丘比丘尼如是少少觀覺如覺者。是謂觀覺如覺念處。云何觀心如心念處。比丘者。有欲心知有欲心如眞。無欲心知無欲心如眞。有恚無恚。有癡無癡有穢汚無穢汚。有合有散。有下有高。有小有大。修不修。定不定。有不解脱心知不解脱心如眞。有解脱心知解脱心如眞。如是比丘。觀内心如心。觀外心如心。立念在心。有知有見有明有達。是謂比丘觀心如心。

若有比丘比丘尼。如是少少觀心如心者。是謂觀心如心念處。云何觀法如法念處。眼縁色生内結。比丘者。内實有結知内有結如眞。内實無結知内無結如眞。若未生内結而生者知如眞。若已生内結滅不復生者知如眞。如是耳鼻舌身意。縁法生内結。比丘者。内實有結知内有結如眞。内實無結知内無結如眞。若未生内結而生者知如眞。若已生内結滅不復生者知如眞。如是比丘觀内法如法。觀外法如法。立念在法。有知有見有明有達。是謂比丘觀法如法。謂内六處。

復次比丘。觀法如法。比丘者内實有欲知有欲如眞。内實無欲知無欲如眞。若未生欲而生者知如眞。若已生欲滅不復生者知如眞。如是瞋恚睡眠調悔。内實有疑知有疑如眞。内實無疑知無疑如眞。若未生疑而生者知如眞。若已生疑滅不復生者知如眞。如是比丘觀内法如法。觀外法如法。 立念在法。有知有見有明有達。是謂比丘觀法如法。謂五蓋也。

復次比丘。觀法如法。比丘者。内實有念覺支知有念覺支如眞。内實無念覺支知無念覺支如眞。若未生念覺支而生者知如眞。若已生念覺支。便住不忘而不衰退。轉修増廣者知如眞。如是法精進喜息定。比丘者。内實有捨覺支知有捨覺支如眞。内實無捨覺支知無捨覺支如眞。若未生捨覺支而生者知如眞。若已生捨覺支。便住不忘而不衰退。轉修増廣者知如眞。如是比丘觀内法如法。觀外法如法。立念在法。有知有見有明有達。是謂比丘觀法如法。謂七覺支。
若有比丘比丘尼如是少少觀法如法者。是謂觀法如法念處。

若有比丘比丘尼。七年立心正住四念處者。彼必得二果。或現法得究竟智。或有餘得阿那含。置七年。六五四三二一年。若有比丘比丘尼。七月立心正住四念處者。彼必得二果。或現法得究竟智。或有餘得阿那含。置七月。六五四三二一月。若有比丘比丘尼。七日七夜立心正住四念處者。彼必得二果。或現法得究竟智。或有餘得阿那含。置七日七夜六五四三二。置一日一夜。若有比丘比丘尼。少少須臾頃立心正住四念處者。彼朝行如是暮必得昇進。暮行如是朝必得昇進。佛説如是。彼諸比丘聞佛所説。
歡喜奉行念處經第二竟 三千一百三十七字

阿含経の中の「十二縁起」分析、『縁起経』(三藏法師玄奘訳)

十二縁起の漢文のお経に「縁起経」(三藏法師玄奘訳)という経典があります。
南伝大蔵経では相応部・因縁篇・分別に近いと思いますが、順観のみで分析の順序も順観になっています、分析内容はほとんど変わりありませんが無明が詳細に増えていることと、渇愛が六愛から三愛になっています。
早速、朝課の木魚バージョンに追加ですね(笑)

漢文は大蔵経テキストデータベースを参考としました。

縁起經一卷
三藏法師玄奘奉 詔譯 

 如是我聞。一時薄伽梵在室羅筏。住誓多林給孤獨園。與無量無數聲聞菩薩天人等倶。 爾時世尊告苾芻衆。吾當爲汝宣説縁起初差別義。汝應諦聽極善思惟。吾今爲汝分別解説。苾芻衆言。唯然願説。我等樂聞

 佛言。云何名縁起初。謂依此有故彼有。此生故彼生所謂無明縁行。行縁識。識縁名色。名色縁六處。六處縁觸。觸縁受。受縁愛。愛縁取。取縁有。有縁生。生縁老死。起愁歎苦憂惱 是名爲純大苦蘊集。如是名爲縁起初義

 云何名爲縁起差別。 謂無明縁行者。

 云何無明。謂於前際無知。於後際無知。於前後際無知。於内無知。於外無知。於内外無知。於業無知。於異熟無知。於業異熟無知。於佛無知於法無知於僧無知。於苦無知 於集無知 於滅無知 於道無知。於因無知 於果無知。於因已生諸法無知。於善無知 於不善無知。於有罪無知 於無罪無知。於應修習無知 於不應修 習無知。於下劣無知 於上妙無知。於黒無知 於白無知。於有異分無知。於縁已生或六觸處。如實通達無知。如是於彼彼處如實無知。 無見無現觀。愚癡無明黒闇。是謂無明。

  云何爲行。行有三種。謂身行語行意行。是名爲行。行縁識者。云何爲識。謂六識身。一者眼識。二者耳識。三者鼻識。四者舌識。五者身識。六者意識。是名爲識。 識縁名色者。

 云何爲名。謂四無色蘊。一者受蘊。二者想蘊。三者行蘊。四者識蘊。

 云何爲色。謂諸所有色。一切四大種。及四大種所造。此色前名總略爲一。合名名色。是謂名色。名色縁六處者。

 云何六處。謂六内處。一眼内處。二耳内處。三鼻内處。四舌内處。五身内處。六意内處。是謂六處。六處縁觸者。

 云何爲觸。謂六觸身。一者眼觸。二者耳觸。三者鼻觸。四者舌觸。五者身觸。六者意觸。是名爲觸。觸縁受者。

 云何爲受。受有三種。謂樂受苦受不苦不樂受。是名爲受 受縁愛者。

 云何爲愛。愛有三種。謂欲愛色愛無色愛。是名爲愛。愛縁取者。

 云何爲取。謂四取。一者欲取。二者見取。三者戒禁取。四者我語取。是名爲取。取縁有者。

 云何爲有。有有三種。謂欲有色有無色有。是名爲有。有縁生者。

 云何爲生。謂彼彼有情。於彼彼有情類。諸生等生趣。起出現蘊。得界得處得諸蘊。生起命根出現。是名爲生。生縁老死者。

 云何爲老。謂髮衰變。皮膚緩皺。衰熟損壞。身脊傴曲黒黶間身。喘息奔急。形貎僂前。憑據策杖。惛 昧羸劣。損減衰退。諸根耄熟。功用破壞。諸行朽故。其形腐敗。是名爲老。

 云何爲死。謂彼彼有情。從彼彼有情類。終盡壞沒。捨壽捨煖。命根謝滅。棄捨諸蘊。死時運盡。是名爲死。此死前老總略爲一。合名老死。

 如是名爲縁起差別義苾芻。我已爲汝等説所標縁起初差別義時。

 薄伽梵説是經已。聲聞菩薩天人等衆。聞佛所説皆大歡喜。得未曾有信受奉行

縁起經
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