『六祖檀経』 中川孝著 タチバナ教養文庫 覚書

六祖とは、菩提達磨を初祖とし、六代目にあたる大鑑慧能禅師のことです、その慧能禅師の弟子がそれぞれ臨済宗、曹洞宗に発展したとされてます。
『六祖檀経』は慧能禅師が衆人のために授戒会と説法を行った時の記録とされています。
後に法燈を守ろうとする神会により、また神会を批判する後人により度々改変がなされたということですが、唐時代の活き活きとした中国禅を覗き見る資料として価値あるものだと思います。

幸いに、難解な漢文を平易な言葉で訳された絶好の書がありますので、ここに一部ですが紹介いたします。「『六祖檀経』 中川孝著 タチバナ教養文庫」

三 時に衆のために定慧の門を説く

十三 定慧は一体である

諸君、私の説く教えは、禅定と智慧とを根本とする。諸君、思い違いして禅定と智慧とは違うと考えてはならない。禅定と智慧とは一体であって二つのものではない。禅定はまさに智慧の本体であり、智慧は、まさに禅定の作用である。智慧そのものをとりあげると、禅定は智慧の中に含まれ、禅定そのものをとりあげると、智慧は禅定の中に収められる。もしこの意味が分かるならば、そのまま禅定と智慧とは平等に学ばれることになる。修行者諸君、先に禅定を修めてそこから智慧が出て来るとか、先に智慧があってそれから禅定の境地が出てくるなどと考えて、禅定と智慧はそれぞれ違うものだといってはならぬ。このような考え方をする者は、真理に二つの姿あるということになる。
 

十四 一行三昧とはなにか

 諸君、一行三昧ということは、どんな所でも、歩いていも立っていても、座っていても、いつでも雑じり気のない真直ぐな心で言行思惟がなされているのがそれである。
 
 真実を見失った人は、真理の形態に執らわれ、一行三昧に執らわれて、「坐って動かず、やたら心を起こさぬのが一行三昧である」と言ってのける。このような考え方をするのは、まったく草木に情がないのと同じことで、かえって仏道修行を妨げる条件となる。諸君、道は必ず広まらねばならぬものであるのに、どうしてそう渋滞させるのか。心が物に執らわれなければ、道はただちに広まる。

十五 定慧は燈光のごとし

諸君、禅定と智慧との関係は、たとえばどのようなものであろうか。それはちょうど燈とその光のようなものだ。燈があれば輝くが、燈が無ければ輝かぬ。燈は光の本体であり、光は燈の作用である。呼び名は二つあるが、本体はもともと同一。この禅定と智慧の関係も、やはりそのようなものだ。

十七 無念、無相、無住の教え

諸君、私がここに説く教えは、先輩からずっと続いているように、第一に無念をうち立てて宗旨とし、無相を本体とし、無住を根本とするものである。
無相とは、形を認めながらそれに執らわれないこと。
無念とは、ものを思いながら思いに執らわれないこと。
無住とは人の本性であるから、世間の善悪や、美醜、もしくは怨みと親しみ、言葉の刺激やだましあい、すべてそれらは仮の姿で実体のないものと考えて、あだを報いようなどと思わず、一瞬一瞬の意識のうちに、過ぎ去ったものを思い浮かべないことである。もし過去の意識と現在の意識とが一瞬一瞬にして断ち切れないならば、それを束縛という。逆にすべての存在に対して、一瞬一瞬に意識が執らわれないならば、それこそが束縛がないことだ。これを、無住を根本とするというのである。
諸君、あらゆる形に執らわれないことを無相という、ほんとうに姿かたちの執らわれを離れるときは、たちまちそのものの本体は清らかなありのままのものとなる。これが無相を本体とするというのである。
諸君、あらゆる対象に対して、心が汚れないことを無念という。
諸君、なぜ無念を宗旨と立てるのであるか。それは、ただ口先で見性を説いても、本性を見ていない人は対象に対して意識を起こし、その意識ですぐに誤った考えを起こすため、あらゆる煩悩や妄想が、そこから出てくるからである。自己の本性は本来これであると認めるべきものは何もないのである。もし認められるものがあってみだりに禍福があるなどと説くならば、これこそ人間の心を惑わす煩悩であり、因果を無視した妄見である。というわけでここに説く教えは、無念を立てて宗旨とするのである。
諸君、無とは何がないのか、念とは何を念ずるのであるか。無とは、主観・客観の対立が無い事であり、人間の心を惑わす多くの煩悩の心が無いことである。念とは、ありのままの本性を念ずることである。ありのままであるということは、つまり念の本体であり、念はすなわちありのままであることの働きである。ありのままの自性が念を起こすのであって、眼や耳や鼻や舌に念ずる働きがあるのではない。ありのままということは、人に生まれながら備わっている心があるということである。だから念を起こすのである。もしありのままということがないならば、眼や耳やそれに映ずる物の色や形や音声はたちまち滅びてしまうであろう。
諸君、ありのままの自性が念を起こすから、眼耳鼻舌身意の感覚器官は、見聞覚知の働きを持ちながら、様々の対象に汚されず、しかも人が本来具えている本性はいつも自由なのである。外の対象に対しては、はっきりとあらゆる姿かたちを認識しながらも、内心には究極の真理を踏まえていて微動だもせぬのである。

十八 坐禅の教え

諸君、わが宗門の坐禅は、もともと心に執着するものでないし、清浄に執着するものでもなければ、不動でもない。もし心に執着するというなら、心はもともと捉えどころの無いものである。心は幻のようなものだとわかっているから、それに執着するはずもないのである。もし清浄ということに執着するなら、人の本性はもともと清浄であるのに、妄想によってありのままを覆い隠しているのだ。もしもともと想いが無ければ、本性はそのまま清浄である。だから心を起こして清浄ということに執らわれるなら、かえって清浄という妄念が出てくる。妄念に根拠など無いのであり、それに執らわれるものこそ妄念なのだ。清浄なるものには姿はないのに、逆に清浄という姿を立てて、これを修行に努めたなどとという。このような考え方をする者は、自己の本性を妨げて、逆に清浄なるものに縛られるのである。
諸君、精神の不動を目指して修行するには、すべての人に対して、その好し悪しや善悪の過ちを見ないこと。これが自己の本性の不動であることなのだ。
諸君、本性を見失った人は、身体は不動でも、口を開けばすぐに他人の善し悪しや、長所短所、好き嫌いを説いて、道にはずれてしまう。もし心に執着し、清浄なものに執着すれば、逆に道をふさぐことになるのである。

四教授坐禅門

十九 坐禅の教え

諸君、どういうものを坐禅というのか。わが宗門では、何のさわりもさまたげもないことである。外部のあらゆる善悪の対象に対して、心の思いが起こらないのを坐といい、内面的には自己の真性を見届けて、心が不動であるのを禅というのである。
諸君、どういうものを禅定というのか、外界として見られる一切のかたちに執らわれないことが禅であり、内面的には心が乱れないないのが定である。外界でもし形に執らわれるtと、内面の心はたちまち乱れる。外界でかたちに執らわれないならば、心はそのまま乱れない。人の本性は、それ自ら清らかで、それ自ら安定したものである。ただ対象を見、対象を思うがために、たちまち乱れるのである。もしどんな対象を見ても心が乱れないならば、これこそまことの定である。
諸君、外界のかたちに執らわれなければそれが禅であり、内面的には心が乱れないのが定である。外に対しては禅であり、内においては定が得られたこと、それを禅定というのである。
諸君、一瞬一瞬の間にも、自己の本性が清浄であることを見届け、自分で清め、自分で実行して、実行で悟りの位を完成するのである。

五 説伝香懺悔発願門

二十 五つの徳の香り

諸君、君たちが本日の受戒の会座に同席してここに居るのは、皆仏縁があったためである。さあ、各自膝を地に着けて坐りなさい。自己の本性に具わっている五分法身香を伝授しよう。
第一は戒香。戒香とは、自分の心の中に過ちもなければ悪もなく、妬みもなく、貪りや怒りもなく、人を脅かし傷つける心もないことを戒香という。
第二は定香。定香とは、様々の対象の善悪の姿を見ても、自分の心が乱れないのを定という。
第三は慧香。慧香とは、自分の心中に障りがなく、いつも智慧で自性を見届けて悪もなさず、多くの善を行うけれども、心がそれに執らわれず、目上の人を畏敬し、目下のものを愛し、孤児をあわれみ、貧者に恵みを与えるのを慧香という。
第四は解脱香。解脱香とは、自分の心が引き回される対象がなくて、善とか悪とかに思いを廻らさず、自分の思いのままであって差障りがないのを、解脱香という。
第五は解脱知見香。解脱知見香とは、自分の心がもはや善悪の対象に引き回されることが無くなったといっても、空寂に落ち込んで、それを後生大事にすべきではなく、必ず広く学び博聞多識であるべきだ。自己本来の心を識り、諸仏が明らかにしておられる真理を窮めて、その自分の言葉が世間に広く知れ渡っても、言葉の過ちを生じることはなく、その行為が広く世間で実践されても、人に怨まれ憎まれることもなく、徳を表に現さぬようにして人を導き、自他の対立なしにそのまま悟りに到達して、真性が本来のままであるというあり方を解脱知見香という。

二十一 根源的な懺悔

諸君、自性の五分法身香は、君たちの心中に燻らすものであって、外に捜し求めてはならない。いま諸君のために無相懺悔を教え、過去・現在・未来にわたる三世の罪を滅し去って、身体と言葉と意識の三つの働きが清らかであるようにしよう。
諸君、各自、私の言葉について一度に唱えよ。
「私たちは、過去の思い、現在の思い、また今後の思いが、一念一念に愚かな迷いに汚されることがないように、今までのあらゆる悪い行い、愚かな迷いなどの罪をことごとく懺悔いたします。どうかこれらの罪が一度に消滅して、永えにまた起こることがありませんように。」
「私たちは、過去の思い、現在の思い、また今後の思いが、一念一念に思い上がりに汚されることがないように、今までのあらゆる悪い行い、思い上がりなどの罪をことごとく懺悔いたします。どうかこれらの罪が一度に消滅して、永えにまた起こることがありませんように。」
「私たちは、過去の思い、現在の思い、また今後の思いが、一念一念に嫉妬に汚されないように、今までのあらゆる悪い行い、嫉妬などの罪をことごとく懺悔いたします。どうかこれらの罪が一度に消滅して、永えにまた起こることがありませんように。」と。
諸君、以上が無相懺悔である。どういうのが懺であり、どういうのが悔であるか。
懺とはその前罪を悔いることだ。過去のあらゆる悪い行い、愚かな迷い、思い上がり、嫉妬などの罪をことごとく悔い、誓ってまた起こすまいと願う。これを懺という。
悔とは、今後の過失を悔いることだ。今後必ず犯すに違いない悪い行い、愚かな迷い、思い上がり、嫉妬などの罪を、今から決意してことごとく永に断ち切って、決してまた行わない。これを悔という。だから懺悔というのである。
凡人は愚かで迷っているために、ただ前罪を悔いることのみを知って、今後の過ちを悔いることを知らない。悔いないがために前罪も無くならず、今後もまた過ちを起こすのだ。前罪も消えず、今後の過ちもまた起きるというのに、一体何が懺悔といえようか。

二十二 四つの限りなき願い

諸君、懺悔がすんだから、諸君に「四箇条の限りなき願い」を起こさせよう。各自良く注意して正しく聞きなさい。
「我々の心の邪な迷いは果てしもありません。誓ってそれを救い上げようと決心します。我々の煩悩は果てしもありません、誓ってそれを断ち切ろうと決心します。我々の本性に備わっている真理の教えは終わりがありません、誓ってそれを学び尽くそうと決心します。我々の本性は、この上もない仏道そのものです、誓って成就しようと決心します。」
諸君、皆さんは、今言ったではないか、「一切の生類は限りがないが、必ず救おうと決心します」と。このように言うのは、偽りでたらめな心、よからぬ心、人を妬む気持ち、人を憎む気持ちなど、これらの心は、いずれも心中の生類であるが、これらは各自が必ず自己本来の真性によって、自分で救うべきであって、このことをまことの救いという。では何を称して自己の真性によって自ら救うというのか。つまり自己の心中に出てくる不正な考えや、心の迷いや、愚かさという生き物を、正しい考えで救うのである。すでに正しい考えがあれば、その清浄な智慧を働かせて、愚かさや、迷いという一切の生類を打ち破って、各自、自分で救うのである。次に「心の迷いは果てしもありません。誓ってそれを救い上げようと決心します」というのは、自己の真性に備わっている清浄な智慧によって、うそ偽りや、思い廻らす心を除き去るのがそれである。また、「真理の教えは終わりがないが、誓ってそれを学び尽くそうと決意します」というのは必ず自分で自己の清浄な真性をはっきりと見届け、いつも正しい教えを実践することを、まことの学問という。また、「この上もない仏陀の悟りを成就することを固く心に誓う」とは、常にまことに謙虚に、真正直に行じて、迷いにも悟りにも捉われず、必ず清浄な智慧を起こし、真をも超え妄をも超えてたちまち仏の本性を見極めて、即座にこの上もない仏陀の悟りが完成されることである。このように、いつも専念して修行するのが、根本的な誓願の力というものである。

二十三 根源的な三帰依の戒

諸君、これで「四つの限りなき願い」を唱え終わった。次に諸君に「根源的な三つの帰依戒」を授けよう。諸君、「私は自覚という人間のもっとも尊いものに帰依します(帰依覚二足尊)、正義という欲望を離れた尊いものに帰依します(帰依正離欲尊)、清浄という衆団の中のもっとも尊いものに帰依します(帰依浄衆中尊)。今日よりのちは、私は自覚を師と呼んで、決して悟りの正道を妨げる悪魔や、仏道以外のものに帰依せず、自己の真性に備わる仏法僧の三宝に帰依することを、いつも自分で証しだてます。」
諸君、自己の本性に備わる三宝に帰するよう勧める。仏は自覚であり、法は正義であり、比丘の集団は清浄である。自分の心が自覚に帰依して、迷いの心が起こらず、欲望を節して満足することを知り、財産や色欲に執らわれなくなるのを、生類の中のもっとも尊厳なるものと呼ぶ。自分の心が正義に帰依して、一念一念に邪な考えがなく、邪な考えがないために、ただちに自他の対立や、高慢や、貪りや執らわれがないのを、欲望を離れた尊厳なるものと呼ぶ。自分の心が清らかさに帰依した結果、あらゆる汚れに満ちたわずらいや、迷える思いは、自性にあったとしても、少しも心が汚されないのを、衆団の中の尊厳なるものと呼ぶ。この徳行を実践するのが、これが自分に帰依することである。凡人はそれがわからないで、朝から晩まで、三帰依の戒を受けている。もし仏に帰依するというなら、仏はどこにおられるのか。もし仏にお目にかかれぬなら、どんな拠り所に頼るのか。その言葉はでたらめになってしまう。諸君、めいめい自分で見届けて、間違った考え方をしてはならない。教典はあきらかに「自己の仏に帰依する」といって、「他の仏に帰依する」とは言っていない。自己の本性の仏に帰依しないなら、どこも拠り所はないであろう。さあ、自分でわかった以上、めいめいが自分の心の三宝に帰依し、内面においては心そのものを訓練し、外に向かっては他の人々を尊敬することだ。それが自分に帰依することである。

六 説一体三身仏相門

二十四   自性の三身仏
諸君、肉身は家屋である。こんなものに帰依するとはいえない。法・化・報の三仏身は、自己の本性のうちにあるのだ。世の中の人には、自分の心を見失っているがために、自己の本性のうちにあるものに気づかないで、外に向かって三身の仏を探し、自己の中に過去・現在・未来の三世の仏がいることに気が付かないものが多くいる。

諸君、君たちの心が本来の真性に帰依するのは、つまりまことの仏に帰依することなのだ。自ら帰依するとは、自己の本性のうちに浮かんでくる善くない心・妬み憎む心・おごり高ぶる心・我を通そうとする心・偽りででたらめな心・人を軽んずる心・あなどる心・邪な見解・高慢心、そしてあらゆる場合の善からぬ行為を払い捨てて、いつも自分で自分の過ちを反省し、他人の好き嫌いをいわぬのが、これが自ら帰依するということだ。
いつもどこまでも心を謙虚にして、信義が厚い、これが自己の真性を徹底的に見極めて、けっしてどこにも滞ったり妨げられたりしないことであって、これが自ら帰依するということなのだ。

七 説摩訶般若波羅蜜門

二十五 摩訶般若波羅蜜の教え

世間の人は朝から晩まで「摩訶般若波羅蜜」と唱えていながら、唱えている自己の本性(般若)を知らない。ちょうど食べ物の話をしても腹がふくれぬようなものである。ただ口で空というだけであって、永遠に自己の本性を知ることは出来ないから、いつまでたっても役には立たぬ。
世間の人々のすぐれた本性はもともと空であって、一つとしてつかむことの出来るものはない。人の本性がまことの空であることも、やはりまったくこれと同じである。
諸君、いま私が空を説いていることを聞くと、すぐさまその空に執らわれる。絶対に空に執らわれてはならぬ。もし何も思わないで静坐をするなら、たちまち無意識という空に落ち込んで、結局仏の教えを全うすることが出来ない。
諸君、宇宙という空間は、万物の存在を包容することができる。太陽、月、多くの星、山、河、水流の源、渓流、すべての樹木、悪人、善人、悪いもの、善いもの、天上界、地獄、すべての大海、須弥山等の山々は、いずれもみな空間の中に存在する。世間の人の本性が空であることも、まったくこれと等しいのである。
諸君、すべての般若の智慧は、みな自己の本性から出てくるのであって、外から入ってくるものではない。考え違いをしてはならぬ。そのことを自己の真性が自ら働くとき、一つの真性が真実であるから、その結果として出てくるあらゆるものが真実であるというのである。

二十六 般若の実践

諸君、どういうことを般若というのか。般若とは智慧のことである。すべての場所で、あらゆるときに、一念一念が愚かにならず、いつも智慧を働かせるのが、般若の実践である。一念でも愚かであれば、般若の智慧は中断され、一念が正智に働けば、般若が生まれてくる。世間の人は愚かで大切なことを見失い、般若の智慧に目覚めていない。口で般若について語りはするが、心中はいつも愚かである。自分から、わたしは般若を学んでいるといい、始終空について語りながら、本当の空に気づいていない。般若には、姿はない。智慧ある心こそこれである。もしこのように悟るならば、それが般若の智というものである。諸君、本心を失った人は、口で唱えるだけで、唱えているそのときに、すでに妄想があ離、誤りがある。一念ごとに、もし般若の智慧を実践するならば、これが自己の本性というものである。この教えに気が付くのが般若の教えであり、この行を実践するのが般若の行である。実践しないならば凡人であるが、一念でも実践するならば、その人の自性の法身は、仏と同じである。
諸君、凡夫が仏なのであり、煩悩が悟りなのである。前の一念が本心を失えば凡夫であり、後の一念が本心に気づけば仏である。前の一念が対象に執らわれるとそのまま心の迷いとなり、後の一念が対象の執らわれから抜け出れば、それが悟りを得たことなのである。
諸君、大いなる般若の智慧の完成は、最も尊い、この上も無い、最高のなことなのである。それは、どこかに住まることなく、どこかに行くこともなく、どこから来るものでもないものであるが、過去・現在・未来のあらゆる仏は、ことごとくこの中から出てこられるのである。いかにしても、大いなる智慧でもって、五蘊から起きてくる心の迷いや俗世間の心労を打ち破らねばならぬ。このように実践するならば、きっと仏の悟りの道を完成して、貪りと怒りと愚かさという三つの迷いを、戒定慧の三つの徳に変えられるのである。

二十八 よき指導者
諸君、智慧をもって観じ、明らかに知るならば、心の中も外の対象もからりと徹見し、自己の本心を悟るのだ。本心を悟れば、それは根本から自由になったことである。自由を得たならば、これこそ智慧の座を動かないことであり、これがいつも正しい思いでいることなのである。どういうのがいつも正しい思いでいることか。もしあらゆる存在を見て、心が執らわれなければ、それがいつも正しい思いでいることなのである。働くときにはそのままあらゆる所に行き渡りながら、しかもまたあらゆる所に心が執らわれない。何よりもまず本心を清浄ならしめて、六識を六つの出入り口から逃げ出させ、それぞれ六つの対象の中で汚されることもなく乱れることも無く、来るのも行くのも思いのままになって、融通無碍でいささかも渋滞せぬことだ。これが智慧の座を動かないことであり、思うままで自由であるから、正念の座を動かない修行と呼ぶのである。もし何も思わないで、常に思いを根絶やしにしてしまうならば、それは教えに自らを縛ったやり方で、偏った考えというものである。

三十一 浄土は目の前にある

またたずねた、「わたしはいつも出家や在家の人が阿弥陀仏の名を唱えて、西方浄土に生まれようと願っているのを見ます。どうか和尚よ、おっしゃってください。いったい浄土に生まれられるものかどうか。どうぞ私のために疑問をお説き願います。」
師は申された、「使君よ、もし心底に不善がなければ、西方はここから遠くない。もし不善の心を持っているならば、たとえ念仏しても、浄土に往生することはかないますまい。今、諸君に勧める、まず心中の十悪を取り除きなさい。それで十万里を進んだことになる。つぎに八邪を取り除きなさい。それで八千里を通過したことになる。一念一念に自己本来の真性に目覚めて、常に素直な心がけでいるなら、浄土に行くのは指をはじくほどのわずかな時間で、すぐに阿弥陀仏を拝することができる。
使君よ、十善をこそ行じなさい。何もわざわざ往生を願うことは無い。十悪の心がふっ切れなければ、なんの仏がお迎えに来られるものか。もし変わることの無い頓悟の教えをつかんだならば、西方を眼前にするのは、ただの一刹那の間である。それをつかむことなしに、念仏してそこに生まれようと願うなら、道は遠くて、行き着くことはかなわぬ。ひとつ諸君のために、西方を引っぱって来て、一刹那のうちに眼前に見せてあげよう。諸君、見たいと思うかね。
諸君、誰でも自分の肉身は城であり、眼と耳と鼻と舌は城門である。身の外側に、眼・鼻・舌・身の五門があり、内側に心の門がある。心は国土であり、本性は王であって、王は心の国土の上にいる。本性が在れば王は在る。本性が離れ去ると王はいなくなる。本性が在れば身心は存立し、本性が離れ去ると身心は崩れ去る。仏はこの本性の中で出来上がるのである。自身の外に求めてはならぬ。自己の本性を見失った者、それが衆生であり、自己の本性に目覚めたもの、それが仏である。慈悲の心がそのまま観音であり、喜捨の行いが勢至と呼ばれる。清らかな主体が釈迦仏に他ならず、すなおさが阿弥陀仏に他ならぬ。自我の高ぶりは、須弥山であり、邪な心は海水である。心の迷いは波浪であり、毒害の念は悪龍である。虚妄は鬼神であり、世俗の苦労は魚やすっぽんである。貪りや怒りは地獄であり、愚かさは畜生である。諸君、いつも十善を行ずるならば、天国はただちに訪れて来るし、自我の高ぶりを取り除くと、須弥山は崩れ落ちる。邪な心が無ければ、海水は無くなる。心の迷いがなければ、波浪は収まるし、毒害の念が滅すれば魚や龍は絶える。自己の心底の上にある覚性という如来は、大光明を放って、外には六門を照らして清らかならしめ,六欲天などの世界を見事に粉砕する。自己の本性が内側で照らすと、貪・瞋・痴の三毒はすぐに取り除かれ、地獄などに落ちる罪は一度に消えうせてしまう。心の中も外も明るく透き通って、西方浄土と変わらない。こういう実践をやらずにいて、どうしてそこに行けようか。」
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