板橋興宗禅師のネコ寺僧堂語録感想文 「命とはなんだ?」

命とは

「命とはなんだ?どこにある?言ってみろ」
「生きているとはどういうことだ?言ってみろ」

新参が「ここです」と頭や胸を指差したりあるいは、「禅師様の声を聞いてここにいることです」等と答えております。どう答えても叩かれることはないので皆気楽に答えてしまいます。

私は一度も指されないので不満でした、それなりに答えはあるつもりでしたので。

「感覚がありそれに反応することが生きているということです、生きているというのはそういった現象を言葉で表現したものです、命というのは生きているという事実をを名詞にしたものです、だから何処にも在りませんし、この体全体何処にも在ります」と。

完全に語に捉われています、分別ですね、これでは打たれても仕方ありません。このような理解で法戦交わしたのですから時間つぶしにもなりません、百害あって一利なしです。

「命とはなんだ?」と問われたら

             今のところ猫でも放り込む事しか思いつきません。
                         ・・・悪しからず(笑)
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板橋興宗禅師のネコ寺僧堂語録感想文 「あんただれだっけ?」

敦賀さん

愚痴ではないのでしばしお付き合いを。
私は出家前の参禅者のころは禅師様から「原発君」や「敦賀さん」と呼ばれてました。
得度して僧堂に入ってからもしばらくは「敦賀さん」で、夏安居の首座を勤める辺りから「だれだっけ?」に変わりました。
下山し一庵の住職となったあとでも「だれだっけ?」です。
弟子なので名前をいただいたわけなんですが、なぜか僧名を呼んで頂いたことは一度もありません、禅師様は他の修行僧も一様に出身地を名前代わりに呼んで居られました、地名は覚えやすいというのもありますし、僧名など代わり映えしないので覚える気も無かったのではとも思いますが、私の場合はどんどん退化されていったわけです。

遅きに堪えませんが今頃思うのです「是は何者ぞ」と呼ばれ続けていたのではと。
そう思うと、一度も何も答えを持っていかなかった私は只の穀潰しだったわけです。

やれやれ申し訳の無いことお詫びのしようがございません、徳山ならば百棒ですね。

板橋興宗禅師のネコ寺僧堂語録感想文 「ねこ」

・ねこ
「こういうことを言うと叱られるが、猫は悟っている。」
「畜生になれと言っている訳ではないが、猫になれ。」
「猫には悩みが無い人間だけが悩んでいる」


誤解なきように、狗子仏性や、異類中行や、禅定による霊妙な悟りや、洞察の智慧による自己を明らめる覚知を言っているのではありません、そんなことを思えばいよいよ遠ざかります。
それに猫だって悩んでます、ストレスで病気になったりしてますね。
ここで問題となっていることは、例えば、物事に対して言語を超えた認識を我々は出来るでしょうか?、過去・現在・未来の思いを言語を使わずに表現し、後悔・不安・焦り・悩み等を記憶し更新し続けることが出来るでしょうか?ということです。
実際、生老病死の苦しみはどの生き物にもそれなりにあるでしょうし、また、得たいと思うものが得られない、嫌なものと一緒に居なければならない、好きなものと離れなくてはならない、等々猫にも苦しみはあります。
しかし、人だけはその苦しみを言語で持ち続け、増大し、捏造して、実際には今は無い、すでに過ぎ去った、あるいは未だ起きてない、あるいは自分で想像しただけに過ぎない苦しみを、更に怒り、恨み、妬み、等に変えて自分に他に矛先を向ける事ができるのです。
人が苦しみをわざわざ自分で持ち続け、創作し続けることを知らなければ自作の苦しみは減りません。
だから禅師様は猫のたとえをだすのです。(たんに猫好きというのもありますが)
ここで言う悟りについては、禅では言語(思考も当然含まれます)による善悪分別を無くし、事象をそのままありありと体験することがまず不可欠なのでそういった初期禅の一面を表現したものだと私は捉えています。
言葉を使わないということは坐禅でしか体験できないと思います、どうですか一度坐ってみませんか。
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